シャーロット・ブロンテ『ジェイン・エア』 吉田健一訳を語りつくす
シャーロット・ブロンテ『ジェイン・エア』は愛読書と言っていいかもしれない。中でも吉田健一訳である。初めて読んだのは確か20代の頃で、その時に何故吉田健一訳を選んだのかというと書店の本棚にあったというそれだけでしかない。翻訳については長く気にせずにいたのだが、ある時、図書館で『ジェイン・エア』の別訳をパラパラとめくって、ほとんどのけぞった。先日、オースティンの『高慢と偏見』の翻訳を比較してみたが、その時に見た「ねえ、あなた」とか「まあ、あなた」とか「旦那さま」などといったようなレベルの違いではない。原文も見てみたが英語に疎い私にはどちらが原文に忠実であるのかも、さっぱりわからない。
今日はそのことについて書いてみようかと思う。
吉田健一訳
まず、問題となった文章を吉田健一訳で引用してみる。
吉田健一訳の云々については後ほどどっさりと。
小尾芙佐訳
そして。
この訳に慣れ親しんでいた私に突きつけられた新たな訳がこちらである。
「遅い」が「こののろまめが」になってしまって、
「何をしていたんです」が「こんなに手間どりおって!」になってしまった。言葉の選択というレベルではない。ロチェスターさんの性格さえも変えてしまいそうだ。
心中、お察しくださいというものだ。
原文
ちなみに、原文はこちらである。
この原文は『ジェイン・エア』の Volume 2 Chapter 11 にあたる。
「Lingerer」が曲者だろうか。
それとも英語圏の方にとっては馴染み深い単語なのだろうか。
Copilot訳
さて、例によってAIにも翻訳してもらおう。
確かに「焦っている」シーンではある。
「長くとどまっているのよ」とは妙な日本語だ。
「Lingerer」もどこかに行ってしまった。
Google翻訳
「Lingerer」は「ぐずぐずしてるよ」か。
「私の頭は焦りで燃え上がっているのに、あなたはこんなにも」まではいいのに「遅らせているのよ!」はヘンやろ。
DeepL訳
ちょっとばかりはしょりすぎちゃうか。
それに「リンゲラー」ってなんやねん。
だんだん愚痴っぽくなってきた。
しかし、こうしてみると小説の訳とはこれほどに難しいのか。はたまた原文が古い故か。
十一谷義三郎訳
『ジェイン・エア』は、青空文庫でも翻訳が読める。
それがこちら。
問題の訳はこうなっている。
「おそい人!」「怒つてしまつた」とは、なんともかわいい。でもなんだか吉田健一訳に似ている。いや、順番でいうなら、吉田健一訳が十一谷義三郎訳に似ているのか。翻訳する前に他者の訳を読むのだろうか。
大井浩二訳
さて、他になかったかなと思い巡らしてふと思い出した。電子図書館。グーテンベルク21の大井浩二訳。
一番無難といった感じの訳かしら。
吉田健一訳を大いに語る
さあ、吉田健一訳『ジェイン・エア』についてもう少し語ってみよう。と思ったら、2018年に読書メーターでがっつり語っていた。なので、そちらから加筆訂正した。
吉田健一訳には幾つか特徴がある。一つは「様」を使わないこと。ジェインが「ロチェスター様」と呼びかけることはない。フェアファックスさんでさえ「ロチェスター様」と称することはない。原文はというとロチェスターへの呼びかけにはほぼ必ず「Sir」が付く。訳者はこの「Sir」を訳していないことになるのかもしれない。でも必ず訳さなければならないのか。当時の「Sir」はどれほどの意味を持っていたのか。それはもしかしたら、ちょっと丁寧な「さん」かもしれない。だとすれば必ずしも訳さなくてもよいのかもしれない。むしろ「様」という敬称は大袈裟にすぎるのかもしれない。
私は1800年代の頃の英国のことには詳しくないので、正確なところはわからない。そもそも、「様」を使うか使わないかなど、たいしたことではないのかもしれない。だけれども、私には随分印象が違って感じる。ジェインの自立心が際立って感じるのだ。唯々諾々と周囲に流される、ジェインはそういうような女性ではない。ジェインにとってロチェスターは従わなければならない主人ではない。共に並んで立ち、共に並んで人生を歩んでゆく、そういう相手なのだ。それは、今日の日本において「様」という呼びかけから受ける印象とは全く別のものである。
吉田健一訳のもう一つの特徴は「!」を使わないことである。原文ではしばしば「!」が登場する。叫ぶようなときに。叫びたいほどに強調したいようなときに。他の訳書は原文にならって「!」を使用する。だが。この作品には全く出てこない。「全く」である。この思いきった翻訳は間違いなく訳者の意図することのはずである。「!」がないと強調できないか。そうは思えない。私は何度も胸が締め付けられたのだから。あるいは、もしかしたら原作より文学的になってはしないかと思わないでもないほどであるが、さすがにそれはちょっと私の思い込みがすぎるのかもしれない。
さて。ジェイン・オースティン、シャーロット・ブロンテと続けて読むと、やはりついつい比較してしまう。特に『高慢と偏見』、『ジェイン・エア』は、なんとなく似たところがある。その時代、貴族との恋、身分差別、そして差別に抵抗するヒロイン。
著者は二人の女性。
ジェイン・オースティン(1775-1817)
シャーロット・ブロンテ(1816-1855)
シャーロット・ブロンテがまるでオースティンの生まれ変わりようだ。シャーロット・ブロンテはオースティンを読んだのだろうか。読んだような気がする。
では、訳者はというと二人の男性。
吉田健一氏(1912-1977)英文学者、評論家、小説家
阿部知二氏(1903-1973)英文学者、小説家
これまた似ている。
『高慢と偏見』、そして『ジェイン・エア』。どちらが好まれるのだろう。私自身は『ジェイン・エア』の方がすきなのである。『ジェイン・エア』の方がより情熱的な感じをうける。そう思っていると、訳者である阿部知二氏が『高慢と偏見』について次のように語っておられた。
『さらに手近かなこととして、彼女の小説中に情熱が欠如していると指摘する批判者たちもある。』
そして、さらにこう続ける。
『これもたしかに、そうであり、そこでのほとんどの男女は、恋愛と同時に聡明な理知をはたらかせていたりするのであり、さらにいえば、この『高慢と偏見』にしても、そこに一つの接吻もないのである。』
うん、そう。
ん?
いや、まるで私が接吻を求めているかのようだがそうではなくて、私が『ジェイン・エア』の好きなところはロチェスターさんが語る愛の言葉なのである。それはもう、すごい。一旦告白すると溢れんばかりである。だから、あの別れの場面もすごい。
ジェインを手離すまいとして語られる愛情は、私は他に知らない。別れの場面と再開の場面は、何度も読んでも胸が熱くなり、涙がほとばしる。私は二度読んだ作品はほとんどない。なのに、吉田健一訳『ジェイン・エア』は何度も開いている。表紙カバーはもうないし、あちらこちらの頁の端々が折れている。そしてまたいつか開くのだろう。
調べてみると、阿部知二氏も『ジェイン・エア』を訳しておられる。これは、是が非でも読まねばなるまい。
ちなみに、本記事で引用している「遅い」のくだりは、実はもっと長い。吉田健一訳は、ともすれば一文が長いというのも特徴だ。先ほど引用した文も突然に
『「遅い」と言った。』
となっていて「彼が」が抜けているのだが、これは前の文とひっついて一文になってしまっているからである。
「遅い」で改行したのは訳本がそうなっていたからで、私が間違えたというわけではない。「そのとき、~と言った。」までが一文になっていて、原文では二文半にあたる。原文では"Lingerer,"の前で段落を区切っているのに、彼は文さえも切らなかった。きっと訳しながらも言葉が次々とほとばしり出て止まらなかった、いや止められなかったのではないか。そんな風に思うことがある。当時はワープロソフトなどなかったろう。押し寄せる言葉に万年筆を握る手はきっともどかしかったにちがいない。
Jane Eyre, by Charlotte Brontë
最後の最後になってしまったが、原文はこちらで読むことができる。
「1st edition」とあるが、「3rd edition」までがあるようだ。全文がネット公開されているのが「1st edition」だけである。「2nd」と「3rd」はどう違うのだろう。そんなことがまた気になったりする。
タイトル画像の edied by が Charlotte Brontë でなく CURRER BELL になっている。そうだった。女性名では売れないだろうと男性名で発表したんだった。
今は貴女の小説として、世界中で親しまれています。
少しは溜飲を下げてくれるだろうか。