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広辞苑「ら抜き言葉」 室町時代に五段可能動詞が変形し、そして今、一段可能動詞が変形する
記事に書こうかと思いつつタイトルだけを入れてそのままになっているものが、諸々とある。いつか書こう。そう思いながら記録の意味で残したんだがそのうちに書こうとしていたことさえも忘れる。よくあることである。そして、この「広辞苑 ら抜き言葉」もその一つだ。登録は2022年の7月。2年以上も寝かせたままだったのか。
某国営放送のインタビューを見ていると、昨今ではほとんどが「ら抜き言葉」である。これはもう、老若男女、子どもから老人まで、職種も地域も問わずかなりの確率になる。意識して見ている分だけであればほぼ100%と言っていい(個人的見解)。老若男女であるわけであるから、既に「今どきの若い者は」という次元を超えている。国営放送はせっせと字幕に「ら」を入れてゆくのだが…………ら抜きの勢いはとどまるところを知らない。
広辞苑 ら抜き言葉
辞書の文法に関する記述を読んだことはあるだろうか。広辞苑の付録には次のような文章がある。
ら抜き言葉
よく話題に上る「ら抜き言葉」は、五段動詞から可能動詞を作る方法からの類推によって、一段動詞において、たとえば[ta-ber-u](食べる)の[-u]を[-eru]に変えて[ta-ber-eru](食べれる)として可能の意を表したものである。一段動詞の可能表現は、「食べられる」のように未然形に助動詞「られる」を付けるとされるので、「ら抜き言葉」は文法的に間違いといわれる。
なかなか難しい文章である。残念ながら、五段動詞や一段動詞など、とっくの昔に記憶から蒸発している。
少し復習してみる。
五段動詞とは、活用の際にあ段からお段の全てを使うパターンである。「書く」「読む」「話す」などがそれに該当するらしい。
書かない、書こう、書きます、書く、書くとき、書けば、書け
この太字のように「かきくけこ」が全部あるので「五段」と称するらしい。
一段動詞には上一段と下一段があるが、
「上」がイ段のみ、
「下」がエ段のみ、
で活用する。
例えば、上一段の「見る」は次のように活用する。
見ない、見よう、見ます、見る、見るとき、見れば、見ろ
全部「見」になる。
というんだが、後半の四つあたりは
見る、見るとき、見れば、見ろ
という風に活用する。ようにも見える。「見」だけになるという理由がよくわからない。よくわからないんだが、この際そこには拘泥しない。しているとまた進まない。気付けば二年経過、ということにもなりかねない。こういうことは、日々つらつらと考えていると案外にふっとしたことで氷解することもあるものだ。知らんけど。
五段動詞から可能動詞を作る方法
五段動詞から可能動詞を作る方法ですって?
そんなこと、覚えているはずがなかろう。
出でよ、AI。
五段動詞から可能動詞を作るには、五段動詞の未然形に「助動詞(る・れる)」を付けます。
【例】
・使う → 「使わ(未然形)」+「助動詞(る・れる)」=使える(可能動詞)
・選ぶ → 「選ば(未然形)」+「助動詞(る・れる)」=選べる(可能動詞)
・知る → 「知ら(未然形)」+「助動詞(る・れる)」=知れる(可能動詞)
・立つ → 「立た(未然形)」+「助動詞(る・れる)」=立てる(可能動詞)
・貸す → 「貸さ(未然形)」+「助動詞(る・れる)」=貸せる(可能動詞)
続けてこうある。
可能動詞の特徴は次のとおりです。
・一語で「~できる」という意味を表す
・必ず下一段活用(「ない」を付けたときの直前の音がエ段の音)になる
・五段活用の動詞がもとになっている
「未然形+助動詞」
なんでそういう理屈になるのかわからない。
「未然形」をそのまま使うというのであればわかる。
例えばこんな風に。
・使う →
「使わ」+「助動詞(る・れる)」=使われる
・選ぶ →
「選ば」+「助動詞(る・れる)」=選ばれる
・知る →
「知ら」+「助動詞(る・れる)」=知られる
・立つ →
「立た」+「助動詞(る・れる)」=立たれる
・貸す →
「貸さ」+「助動詞(る・れる)」=貸される
おお。
シンプル。
全て「未然形+れる」ではないか。
それを、なんとも、次の「a-r」を全部取っ払ってしまったのだ。
tu-ka-wa-re-ru → tu-ka-we-ru
使われる→使える
e-ra-ba-re-ru → e-ra-be-ru
選ばれる→選べる
si-ra-re-ru → si-re-ru
知られる→知れる
ta-ta-re-ru → ta-te-ru
立たれる→立てる
ka-sa-re-ru → ka-se-ru
貸される→貸せる
どうせ語尾を変えるんであれば、別に未然形でなくても終止形でいいのではないか。
終止形の末尾の「u」を「e-ru」に変えてみる。
tu-ka-u → tu-ka-e-ru
使う→使える
e-ra-bu → e-ra-be-ru
選ぶ→選べる
si-ru → si-re-ru
知る→知れる
ta-tu → ta-te-ru
立つ→立てる
ka-su → ka-se-ru
貸す→貸せる
ほら。これでええんちゃうん?
なんでわざわざ未然形から変形させんとアカンのん?
…………。
あ。
そうか。
これが、実は大いなる伏線であったわけだ。
一段動詞の可能表現
一段動詞の可能表現は、「食べられる」のように未然形に助動詞「られる」を付ける
こちらも「未然形」に「られる」を付けるのが文法的に正しい。AIに下一段活用を聞いてみた。
下一段活用(しもいちだんかつよう)の動詞には、次のようなものがあります。
「蹴る(ける)、「得る(える)、「寝る(ねる)、「はえる、「ふんまえる、「乗り換える、「乗り越える、「乗替える、「いじける、 「うじゃける。
蹴る、得る、寝る、あたりはわからないでもないが、その後が、なんだか、ヘン。
「はえる」は「生える」? 「映える」?
「ふんまえる」? なにそれ。「ふまえる」ではない?
「乗り換える」「乗り越える」「乗替える」って、3つもいる? そもそも「乗り換える」と「乗替える」はいっしょやん。かたっぽは「り」があって、もうかたっぽにはないのは、何故?
「いじける」って、ここで出てくる?
「うじゃける」って、それなんやねん。
うじゃけない、うじゃけよう、うじゃけます、うじゃける、うじゃけるとき、うじゃければ、うじゃけろ
…………。
「蹴る」を活用させると。
蹴らない、蹴ろう、蹴ります、蹴る、蹴るとき、蹴れば、蹴れ
え?
五段活用になるけど。
あ。
AIの答えは文語か!
文語なら文語と言うてくれorz
もうええわ。
広辞苑に聞く。
上一段:着る、見る、落ちる
下一段:捨てる、出る、考える
着ない、着よう、着ます、着る、着るとき、着れば、着ろ
見ない、見よう、見ます、見る、見るとき、見れば、見ろ
落ちない、落ちよう、落ちます、落ちる、落ちるとき、落ちれば、落ちろ
捨てない、捨てよう、捨てます、捨てる、捨てるとき、捨てれば、捨てろ
出ない、出よう、出ます、出る、出るとき、出れば、出ろ
考えない、考えよう、考えます、考える、考えるとき、考えれば、考えろ
よし。
では、「未然形に助動詞「られる」を付け」てみよう。「ない」を捨てて、「られる」をくっつける。
着ない → 着られる
見ない → 見られる
落ちない → 落ちられる
捨てない → 捨てられる
出ない → 出られる
考えない → 考えられる
これが文法的には正しい一段動詞の可能動詞である。
「この服、もう小さいかなぁ。あんた、これ着られる?」
などと使う。
ら抜き言葉はこのうちの「ら」を取ってしまう表現である。五段動詞の可能動詞は「a-r」を取ったんだった。それにならって一段動詞の可能動詞も「a-r」を取ってみる。
着られる → ki-ra-re-ru →
ki-re-ru → 着れる
見られる → mi-ra-re-ru →
mi-re-ru → 見れる
落ちられる → o-ti-ra-re-ru →
o-ti-re-ru → 落ちれる
捨てられる → su-te-ra-re-ru →
su-te-re-ru → 捨てれる
出られる → de-ra-re-ru →
de-re-ru → 出れる
考えられる → ka-n-ga-e-ra-re-ru →
ka-n-ga-e-re-ru → 考えれる
あ。
ら抜き言葉ができた。
「ra」を拭いたんではなくって「a-r」を拭いたんだが。おもしろい。「ら抜き言葉」は五段動詞の可能動詞と同じようにして一段動詞を変形しているわけだ。なるほどねぇ。
さて。
広辞苑「ら抜き言葉」には続きがある。
もともと五段動詞においても、可能表現は未然形に助動詞「れる」を接続させて表現した。
え?
五段動詞も昔は「未然形+れる」だったの?
え、じゃあ、「選ぶ」の可能表現って「選べる」じゃなくって「選ばれる」だったということ?
しかし、「れる」は可能の意味以外に受身・尊敬・自発の意味をも表し、その多義性から誤解を招きやすい。そこで、尊敬の意味では室町時代に「お書きある」のような形式が発達する。現在では「お書きになる」のように「お〜になる」の形になっている。また、一方で可能動詞「書ける」が成立して、「書かれる」はほぼ受身の意味が中心となった。つまり受身は「れる」「られる」、尊敬は「お〜になる」、可能は可能動詞というように、重要な表現形式が合理的に分化した。
…………。
受身、尊敬、自発、そして、可能が同じ表現だったのが、室町時代に分化したのか!
「選ばれる」から「a-r」を取っ払って「選べる」に変わったんだ。しかも室町時代! いつやねん!
室町時代:1336年〜1573年
終わりをとっても452年前!
そんな昔に変わってても、知らんよなぁ。
もうそろそろ気付きつつある。
が、続けてみる。
一段動詞においても「食べられる」は受身・尊敬・可能の意味になる。尊敬は「お食べになる」がすでに成立している。残る受身と可能の表現が紛れるので、五段動詞と同じ要求から、可能表現が「ら抜き言葉」の形で特化しつつあると考えられる。
なんと!
「ら抜き言葉」は、室町時代に既に変形していた五段活用の可能動詞と同じように一段可能動詞を分離しようとしているのか!
「ら抜き言葉」に異を唱える人は室町時代にまでさかのぼって文句を言うべきか?
「ら抜き言葉」が定着すれば、五段動詞と一段動詞で同じように可能動詞を作れることになり、記憶面で経済的である。つまり尊敬は「お食べになる」、受身は「食べられる」、可能は「食べれる」と五段動詞と同じように使い分けができることになる。
しかも著者は、室町時代の再来であるということにとどまらず、記憶面で経済的であるとも言う。記憶面で経済的というのは、五段動詞と一段動詞を区別しなくてよいということだろう。五段動詞のときはこう、一段動詞のときはそう、などというように別々に覚える必要はない。経済的だ。しかも多義性がなくなるのだから、文脈からその意味を思い巡らせる必要はない。「見れる」と言えば「人からじろじろと見られる」のでもなく、「先生が答案を見られる」のでもなく、「見ることができる」という意味の一択だ。「ら抜き言葉」は必然ということか。
だが。
広辞苑「ら抜き言葉」は次の文では締めくくる。
しかし、文法の正否は古い形式を規範とするものであるから、当分の間「ら抜き言葉」は正式な表現とは認められないであろう。
そういうことだったのか。言葉の乱れではなく、合理的な分化という見方もあるのだ。
それにしても。
室町時代の人は何故、五段の可能動詞だけを変形して一段は変形しなかったのだろう。一段の可能動詞を変形するまでに450年もの時間が必要だったのは何故だろう。
うーん。
また、謎。
テレビなどのインタビュー映像を見ていると「ら抜き言葉」がほとんどであるというのは冒頭に書いた。ところが最近、「ら」を抜かない言葉にお目にかかったのである。
「投げられる」
そう言ったのは誰だったか。
田中将大投手
マーくんであった。彼は「投げられる」と言ったのだ。最近では「投げれる」と話す人が多かろう。食事をしながらその言葉を耳にしたのだったが、なんだか妙に新鮮であった。そのことが、これを記事にしようとしたきっかけでもあったりする。
付け足し
否定形になると、「ら」が抜かれずに入ったままになりませんか?
着られない
捨てられない
出られない
考えられない
食べられない
「あー、もう食べられへん!」
大阪弁だけ?
うーむ。