小野寺百合子『バルト海のほとりにて』 太平洋戦争に反対した武官の話
先日、佐々木譲『ストックホルムの密使』という本を読んだ。それについてはこちら。
この物語は、太平洋戦争中に駐スウェーデン武官が和平交渉に腐心するという話だ。そしてこの物語にはモデルがあったという。太平洋戦争中、駐スウェーデン公使館付武官として派遣された小野寺信少将である。
本書はその妻・小野寺百合子氏が書いたノンフィクションである。子どもを戦時中の日本に残し、夫に従ってスウェーデンに同行した。スウェーデンに行く前、スウェーデンでの生活、終戦、そして日本への引き上げ。ヨーロッパから見た戦争が描かれた貴重な記録である。
駐在武官とは、軍事に関する情報収集を目的として海外に派遣した軍人のことを言う。外務省が派遣する公使館(戦中以前は大使でなく公使と言った)に居を同じくしたようだ。
妻を同行するのも常であり、なんとなれば暗号文を作成し、また受け取った暗号文の解読することが妻の役目であったためであるという。妻こそが最も信頼できる人物であるからというのが理由らしいが、どうにも腑に落ちない。当時の暗号作業というと暗号表をもとに一文字一文字を置き換える作業であったかと思うが、そういう地味な作業は女に適しているであろうとか、そういう側面もあったのではなかったか。妻が最も信頼できる人物というのもわからないでもないが、一方でそれ以外に信頼に足る人間関係を築き得ないのかとも思う。何より「情報」というものを軽んじてはいまいかということも見え隠れする。「女=軽視」というのではない。きっちりと専門家を立て費用を投じてすべきだと思うのである。妻がやってもいいが、それならばその立場を明確にすべきだ。夫の手伝いということではなく。海外に武官を派遣しておきながらその情報を有用に活かせなかったこともまた、情報軽視の現れに思えてならない。
ということはおいておくとして、著者は夫についてスウェーデンに行った。そこでの他国の軍人、あるいはその家族達との交流について、パーティーやディナー、服装のとこなどに関する事についても紙面を割いているが、なんと言っても夫と東京の間で交わされた暗号文を見てきた人である。そういった内容は大変に興味深い。
小野寺信という人の経歴については本書の末尾に年譜が設けられている。
1935年、38歳の時にラトビアの公使館付武官となった。
1937年、エストニア、リトアニアの武官を兼務。1938年、帰国。時を置かずに支那派遣軍司令部参謀。
1939年、陸軍大学校兵学教官。
1940年、スウェーデン公使館付武官。
1945年、終戦。
1946年、復員、巣鴨拘置所収監、同年出所。
1987年に89歳で亡くなっている。
ラトビアの武官時代、各国の武官と交流があったようである。アメリカ、ポーランド、チェコスロバキア、スウェーデン、エストニア、リトアニア、ソ連、イギリス。いずれも夫婦揃っていたという。小野寺氏はドイツ語、ロシア語に堪能で、彼らとの交流にも臆するところはなかったようだ。妻同伴ということについてはどの国も同じだったらしく、公私ともに付き合って情報を交換したようである。他国の妻も暗号作業をしていたのかはわからなかったが。
ラトビア時代の任務はラトビア軍部と対ソ連情報を交換すること。東京の参謀本部から諜報費を請求しその金をラトビア軍部に渡すことで情報を得ていたらしい。こちらからも情報を渡すこともあったようだ。ラトビア側の相手は参謀本部第二部長キックルス大佐とロシア課長ペータソン大佐。
そのうちに隣国エストニア武官ウィルヘルム・サルセン中佐と親しくなり、東京に申し出てエストニアとリトアニアの武官も兼任する。エストニア参謀本部第二部長リカルト・マーシング大佐は特に日本とエストニアの関係を重視した。エストニアは、日本の対ソ連諜報活動の援助まで発展する。ラトビア時代の小野寺氏の情報については参謀本部でも高く評価されていたとのことである。
ラトビアを引き上げて帰国した小野寺氏は、次は大陸に渡って蒋介石との和平交渉に奔走した。ロシア課が支那派遣軍司令部参謀として上海に送ったのである。実際に、陸軍大臣邸にて板垣征四郎陸軍大臣、中島鉄蔵参謀次長と会い、同意を得て香港での直接交渉を受諾されるまでに至った。その際、秩父宮殿下の支持もあったという。歴史はそうはならなかったわけであるが、それを覆したのは影佐禎昭氏である。汪兆銘政権樹立を計画した人物だ。上海に向かう小野寺氏と、上海から東京に向かう影佐氏が福岡飛行場で鉢合わせし大激論を戦わせたという話もある。その後、影佐氏が東京で大運動を展開し汪政権樹立が閣議決定されることになった。蒋介石との和平交渉は成立しなかったのである。
その後に赴任したのがスウェーデンである。スウェーデンからはドイツの動向として、イギリス上陸ではなくソ連戦の可能性があることをずっと発信し続けている。在ドイツ公使武官からの報告とまるで相容れない内容であったらしい。東京はスウェーデン・ストックホルム報告を顧みることはなかった。後に独ソ戦が勃発した時、東京は驚いたろうが、ストックホルムからの情報を吟味していれば驚くにはあたらなかったのかもしれない。
独ソ戦の戦況についても、ベルリンから東京に報告されるのはドイツ軍当局の発表を鵜呑みにしたものばかりだったという。ヨーロッパにいた日本人でドイツの敗色を知らなかったのはベルリンの日本大使館と武官室だけだとまで揶揄された。ドイツに呼応して日本が戦争を始めることがあってはならない。ストックホルムからは懸命に打電し続けた。小野寺氏が東京に打った電報は30本を超えるという。だが、ここでもかなわず。
1941年10月、東条内閣成立。
1941年12月、パールハーバーを迎える。
その日、ドイツは東部戦線を一時休止する。
モスクワ攻撃戦略の失敗である。
太平洋戦争開戦後、ベルリン、パリ、ローマにいた新聞社特派員は中立国ストックホルムに配置換えする。一応列挙しておくと、
同盟通信、斎藤正躬、佐々木凛一
朝日新聞、渡辺紳一郎、茂木政(衣奈多喜男)
読売新聞、嬉野満洲雄、喜多村浩(牧信)
毎日新聞、向後英一、榎木桃太郎
更には在欧の商社員も公使館、武官室に嘱託で配属される。
三井船舶、本間次郎
三井物産、佐藤吉之助
三菱商事、井上陽一
公使館への配属は
横浜正金銀行、奥村俊吾
山下汽船、大槻孝治
加えて、これまで陸軍の武官のみであったが、海軍も武官を派遣する。
海軍武官 三品伊織 海軍中佐
これら公使館、武官の人々はあらゆる方面から敵国の戦力国力を分析することにあった。英米の新聞や雑誌、技術や軍事に関するものも含まれた。嘱託の商社員は英語に長けており、手分けしてこなした。これらの情報は東京のみならず、ドイツにも送られた。ヘンリー・デンハム著『ナチスの内側』(1984年)にはドイツで小野寺情報を高く評価していたと記されているらしい。
小野寺氏にはもう一人情報源があった。ペーター・イワノフ。本名ミハール・リビコフスキー。ポーランド軍の参謀将校である。ストックホルムでは満州国にいた白系ロシア人として満州国のパスポートを持っていた。杉原千畝氏の斡旋による。このイワノフ情報については『細川日記』(中公文庫)にもあるという。昭和18年12月9日付日記。『スウェーデン武官より、ビルマ敵兵力は十〜十二ヶ師団、戦車十四ヶ師団、雲南二ヶ師団』。「細川」という名前が琴線に触れた人も少なくないと思うが、そうかつてこの国の首相であった細川護熙氏の父細川護貞氏である。ちなみに細川護熙氏の母方の祖父は近衛文麿氏である。話を戻す。このイワノフについてはドイツから再三引き渡しを要求される。小野寺氏は頑として譲らず武官室の一員としたが、ドイツはスウェーデンに働きかけてイワノフを国外退去させる。結果、イワノフをロンドンのポーランド政府に送り出すことになったが、以来、イワノフに代わってストックホルム駐在ポーランド武官ブルジェスクウィンスキーから情報を受け取る。ヤルタ会談にてソ連の参戦が決まったという情報もこのルートである。
ところが、東京はあろうことか和平仲介をソ連に託すという記事が出た。スウェーデンの新聞紙上である。その時、小野寺氏が東京に向けて打った電報は次のようなものであった。
時に、1945年の5月も過ぎようという頃である。
7月25日、ポツダム宣言
8月6日、広島原爆投下
8月9日、長崎原爆投下
東京から電報があったのは8月も10日。
この電報を受けて小野寺氏はスウェーデン王室に対して、唯一つ天皇制の存続だけを国王からイギリス国王にお願いしていただきたいと願い出た。
そして。
8月15日、ポツダム宣言受諾
小野寺氏は、日中戦争を早期に終わらせようとし、太平洋戦争を避けようとし、また開戦後は早い終戦を願った。一貫して、戦争に否定的だったことになる。何故かこういう人の存在は広く知られていない。不思議である。時々、誰かが蓋をして隠しているのではないかとそんな風に思ってしまう。それでも小野寺信氏についてはNHKがドキュメンタリーで取り上げたこともあったようで、知る人もいるかもしれない。
誰にも知られずに平和人権に貢献した人達を少しでも知りたいと、強く思う。彼ら彼女らの行動は決して有名になりたいと願ってのものではない。だから知名度はあがらない。権力者にとって不都合でもあれば言論を封じられてゆく。そんな言葉が、今もどこかにひっそりと眠っているのではないかと思えてならない。
先日、西村京太郎のD機関情報を読んだ際、太平洋戦争中にこうやって和平交渉を望んだ日本人がいたのではないかと書いたところ、小野寺信という人がいると教えてくれた人があった。こんなことが知りたい、これは何だろう、そうやって書くと教えてくれる人がいる。本当にありがたいことである。一人で調べるには時間もかかる。知れる範囲は、たかが知れている。それを教えてもらうというのは、なんと贅沢なのだろうと、そう思う。ふと世界中に多くの頭脳が解き放たれているような、そんな錯覚さえ覚えるのである。いや、実際に多くの頭脳があるんだが、それらが電気的に結ばれているようなそんな感覚に陥る。とにかくも、私のような小さな疑問にお付き合いくださり、また教えてくださり感謝しかない。これからも長くお願いしたいと思ってやまない。
以下、本書で紹介され興味を覚えた本である。
〝Tiergarten〟『ティアガルテン』
原書はポーランド語。戦後、イワノフが小野寺に送った本である。「小説だから少しは事実と相違する点もあるが、ペーター・イワノフと小野寺信との関係は克明に表現されている」とある。邦訳があるかどうかは不明(おそらくなさそうである)。
小野寺氏自身も戦時中の情報活動を資料にまとめて、防衛庁防衛研修所資料室と東大歴史資料室に納めたとあるが、どうにもみつからなかった。
吉村昭『深海の使者』
人・物資・情報の輸送目的で日本とドイツ間を行き来した潜水艦の話であるらしい。太平洋戦争中にそういう潜水艦があったことはD機関情報の時に少し調べた。遣独潜水艦作戦という。全部で5回。ただし、往復共に成功したのはたったの1回である。残りは往路もしくは復路で沈没している。それにしても、吉村昭氏の著書は幅が広い。あいにく未読なのだが一度は読まずばなるまいに。
細川護貞『細川日記』
著書は第2次近衛内閣の首相秘書官、終戦時は高松宮宣仁親王の御用掛を務めた。Wikipediaには『高木惣吉海軍少将に協力して東條英機暗殺未遂事件や終戦工作の一翼を担い』とある。著書は昭和二十一年十月十七日までの日記。
吉田東祐『二つの国にかける橋』
上海にて蒋介石との和平交渉に扮装したいきさつが記録されているらしい。著者は、上海の小野寺機関にいた人物でもある。蒋介石との和平交渉への動きがどんなものであったのか、読んでみたい。
ラディスラス・ファラゴー『The Game of the Foxes』 (中山善之訳『ザ・スパイ』)
本書に次のように書かれいたらしい。
本書には他にも小野寺氏について書かれてあるそうだが、事実と違うところも多いということであった。
ジョン・トーランド『最後の100日』
敗戦間際、ドイツ外相リッペントロップがソ連との休戦を望み、小野寺信→ソ連公使館マダム・コロンタイ経由でモロトフーリッペントロップ会談の斡旋を求めた。本著者ジョン・トーランドはそのことについて戦後に小野寺氏に尋ねに来たという。
マジック・ディプロマティック・サマリー
太平洋戦争中、米陸軍省通信情報局(SIS)が日本の暗号電文を解読し要旨をまとめたもの。このコピーを目の前にしたときその正確さに驚いたと、本書にあった。日本は敗戦時に多くの記録を焼き捨てた。スウェーデンで終戦を迎えた小野寺夫妻も書類は全て火に投じたとある。残して欲しかったと強く思うし、資料が残っているアメリカとついつい比較もしてしまう。もちろん戦勝国と敗戦国の違いもあるだろうとは思うが。アメリカも敗戦していれば焼いたのかもしれない。軍事機密を漏らすまいという思いが強いのだろう。
だが、日本が焼いて捨てたはずの資料がこうして残っていたわけである。著者小野寺百合子氏をも驚かせたほどの正確さとはどんなものだろう。いつか読んでみたいものだ。
大竹真人『スウェーデンにおける小野寺信和平打診工作』(慶応義塾大学大学院修士論文 1975)
なんと。小野寺信氏について修士論文を書いた人がいたらしい。前にニュートリノに関する修士論文を読んだことがあったので(検索したらたまたま出てきた)、もしかしたらと思って検索してみたが、見つからなかった。そりゃそうか。
最後にもう一つ。蛇足になるのかもしれないが。
佐々木譲『ストックホルムの密使』では、帝国海軍スウェーデン駐在武官・大和田市郎となっている。また本の冒頭には『大和田静子「バルト海を偲んで」』から引用した(かのような)文が掲載されている。
もちろん小説が史実とは違う部分を持っていることはある。名前が違っていても驚くにはあたらないのだが。実は少し検索してみた。すると、こんなものが見つかったのである。
え?
小和田静子?
一文字違い?
関係ない、よなぁ。
しかし、それにしても。
大和田静子「バルト海を偲んで」
小和田静子「バルト海を偲んで」
似すぎやろ…………。
気になって寝られません(ウソ、寝てます)