歳時記エッセイ 「啓蟄」
母は、いわゆる「グリーン・サム」を持った人で、植物を育てるのが得意だった。
我が家の諸事情により、何度か引越をしたものだけれど、大抵は、小さくとも庭があった。
20代の終わり、私は、東京での一人暮らしを引き払い、故郷の神戸に戻った。
母は、父と離婚した後、一人で小さな料理屋を営んでいたけれど、家賃も上がり、続けていくのはなかなか厳しい折で、私の帰郷も一つのきっかけとなり、店を畳んだ。
お互い、一人暮らしを解消し、二人で住むならば、と、古い一戸建を借りた。
そこは、向こう三軒両隣が立て込んだところで、庭はなかった。
表に面した窓の下に小さな花壇があり、目隠しの木が植えられていたけれど、花を植える余地はなく、たとえあったとしても、母も仕事に出ていて、時間的にも精神的にも余裕がなかった。
今から思えば、あの庭のない家に住んでいた頃、いや、父と別れてからは、長らく庭のある環境ではなく、その間、母にとって、土に触れない生活はどんなだっただろう。
その戸建の借家には、6年ほど住んだ。
お隣に大家さんが住んでいて、毎月、家賃を払いに行っていた。
ある年の初め、通勤途中に、ふと「家賃を払うなら、ローンが組めるうちに家を買うか」と思いついた。
それまで、そんなことは考えたこともなかったのに。
そうすると、不思議なもので、一月もしないうちに、近所に手頃な物件が見つかり、トントン拍子に購入の運びになった。
その家は、いわゆる「旗竿地」で、公道に面している幅は2メートルほどで、門から玄関までは表の家の脇になる、長い通路を歩いていかなければならない。
土地の条件としては、あまりよくないものの、その「アプローチ」を母も私も気に入った。
玄関を出れば、すぐ向かいの家、というところにしばらく住んでいたせいか、その通路は、もちろん、なくてはならないものだけれど、むしろ「余裕」「遊び」のように思えたのだ。
アプローチの両側には長い花壇があり、木が植っていたけれど、長らく空き家だったので、庭は荒れていた。
3月に引っ越すと、母はすぐに庭に手を入れ始めた。
そうすると、たちまち、木々が息を吹き返したように潤い、青々と生い茂った。
ある休日、2階の窓からアプローチを見下ろすと、母がいつものように庭仕事をしていた。
確か、5月ごろだったと思う。緑に囲まれ、母は、私を見上げて笑っていた。
緑が美しいのと、母が笑顔なのとで、私も嬉しくなり、思わず写真を撮った。
その写真は、今もあるはずだ。
そのアプローチのある家には、結局、1年ほどしか住まなかった。
父が亡くなり、昔、住んでいた家に戻ることになったからだ。
父は別れてからも、母のことを気にかけていた。
癌がわかった後、詳細は省くけれど、母と私が元の家に安心して住めるように計らってくれた。
かれこれ20年ぶりに戻った家は、男の独り住まいで、ひどく殺風景だった。
庭は荒れてはいないけれど、全体的に灰色の印象で、木々は硬く乾き、地面のあちこちがアリに巣食われていた。
何となく、癌に侵された父の身体と同じように思えたのを覚えている。
父亡き後、その乾いた庭をも、母はたちまち蘇らせた。
まさに魔法のように、木の枝は伸び、葉は生い茂り、瑞々しく息づいた。
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