自分の「弱さ」と一生付き合っていくと決めた話
「本当の強さっていうのは、鋼でできた刀のような鋭いものではなく、竹のようにしなやかで簡単には折れない強さです」
ちょうど先週、とある人に言われてすごく考えさせられた言葉。
それからずっと胸の中で反芻してる。
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ずっと、私は「弱い」んだから、「強い人間になりたい」って、思ってた。
これは昔から感じていた「漫然とした生きにくさ」の話にもつながるんだけど。
「生きにくい」って一言でいっても色々あると思うんだけど、私の場合昔から感受性が豊かすぎて、とりわけ人の感情にすごく敏感。
一緒にいる人が少しでもつまらなそうな顔をしていたらすべて自分のせいだと思ってしまうし、ちょっとした沈黙みたいなものがものすごく怖いので、とにかく場を盛り上げようと喋りすぎてしまう。で空回ってあとからまた後悔。へとへと。
だれかが何の気なしに呟いた一言が頭から離れず、「あれって私のことかな?」「何か怒らせちゃった?」と寝込むくらいにヘコみ続けたり。笑
悲しい事件を扱ったニュースを見れば、「あぁ、辛かっただろうな、痛かったよね、救えなくてごめんなさい」と無力さに涙し、一方で世の中の不幸をすべて背負おうとしている自分に呆れてしまう。
周りからも「考えすぎだよ〜」、「もっと楽に生きればいいのに!」って言われることもよくあったけど、だったらそのやり方を教えてくれよ、って思ってた。
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ああ、めんどくさい。
きっと周りの人が思うより何倍も自分が自分を、面倒くさい人間だと感じている。だけど寝ても覚めてもこれが私であることに変わりがない。
この性格を直せば「強い」人になって、もっと人生を楽に生きれるのかなと考えたこともあった。
原因を知りたくて、この漠然とした「生きづらさ」に名前をつけて欲しくて。
学生のころ勉強でつまづいたとしても、だれかに聞けば、参考書を読めば答えが載っていたのに、おとなになってからは答えがないことが多すぎる。
いろんな本を読みあさったけど、結局なにが原因なのか分からなかったし、心のどこかで自分自身の致命的な欠陥を知ってしまうのが怖かったから、もうこれ以上詮索するのはやめようと思った。
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そんなときにnoteの中で、「HSP」という言葉に出会って。
(HSPってなんぞ、って方はこの記事をご覧いただいたらわかりやすいかと)
ここにも書かれているように、HSPは病気でもなんでもない。
ただの「気質」なんだそうだ。だから治療法や特効薬もないし、病院で診断書がもらえるものでもない。
だけど少なからず、こうした定義が世の中に存在していること、私がずっと感じてきたものの正体が明確に言語化された気がして、なんだかすごく楽になった。
そして、さらにTwitterでこんな投稿を見つけて、「まさに私だ・・・!」と感激した。(Twitterってすごい)
楽しいことや人と話すこと自体は好きだし、周りからも「社交的だね」とか「話上手」と言われることも多い(このツイートによると、繊細なくせに自分から刺激にぶつかりにいってるらしい。なんだか自分が哀れで愛おしく思える)から、自分自身の内面に渦巻く感情と周りから見られている「私」とのギャップが激しくて苦しくなることもある。
でも、もしこの漠然とした「生きづらさ」に解があったとしても、それが全てひっくるめて私といういっこの人間なわけで、無理に「変えよう」としなくてよかったんだなと思い直したらすっと気持ちが楽になった。
変えちゃったら、もう私じゃないもんね。
きっとこの繊細さや優しさは悪いことじゃないし、私が私たるための大切な要素でもあると思うから。
むりに「変える」のではなくて、この自分の気質と根気強く、付き合い続けること。
くたくたに疲れたら、一回立ち止まって頑張りすぎちゃった自分をいたわってあげること。
これができたら、少しは肩の力が抜けて楽に生きられるのではないでしょうか。
この「HSP」という単語を、「わたし繊細で傷つきやすいんだから、丁重に扱ってよね」みたいに人前で免罪符のようにふりかざすつもりはない。
ただ、この繊細で傷つきやすくて複雑な自分自身をもっと慈しみ、愛するために、この言葉にすがりたいだけなのだ。
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私がほしかったのは、竹のように柔らかく、でも簡単に折れないしなやかな強さだ。
鋼のように切れ味は鋭くないけれど、決して人を傷つけない。
そんな強さが、ほしい。
弱さや痛みに人一倍敏感な私ができることって、なんだろう。
ライターとして、誰かに伝えられることはなんだろう。
「私がこの世に生かされている意味」とかいうとまたおおげさなんだけど、そんなことをここ最近ずっと、考えています。