海外進学者のための「論理力」を磨く授業
午前の授業は「論理」について。
受講者はもうアメリカ大学進学目前の人たち(一部はアメリカから受けてくれている)ばかりだ。夏はアメリカに数年過ごしている人も一時戻ってきて授業に参加することもあり「英語力」は十分な人が集まりやすい。
そんな彼らには
日本語と英語が使えるようになって授業を受ける今だからこそ
初めて気がつくことがあるようだ。
言語の勉強は、決して、聞けて話せるようになることではないこと。(単純にリスニングに慣れ、文法を知り、単語を増やしても「言語」が習得できようになるわけではないこと。)
母国語の「日本語」も実はちゃんと使うことができていなかったこと
英語だとか日本語だとか言葉の種類の垣根を超えて理解しなければならないなにか=論理 が存在すること…
日本の英語教育は、英語を知る(分析する)教育である。
英語をツールとして運用できるようにするための教育ではない。
よく聞く話だが、
そんなことは、もうとっくのとっくの昔に、この国は気がついている。
他国と比べて日本人の英語力がなんかおかしいぞ。これくらいは高校生にだってわかる。だからトップクラスの大学を出た官僚や政治家が気が付かないわけがない。
だからこそ、グローバル人材を育てよう!!と言いながら
「英語をツールとして運用できるような教育へ」と大変革を起こそうとしている。
しかし、問題はここからだ。
どこか初期設定から既に間違いが起きている気がするのだ。
その間違いは、
英語をツールとして運用する力=英会話力
となんとなくなラベリングをしているところから始まっているのではないかと思う。
英語をツールとして運用する力=英会話力だとしたら、
アメリカ人は英語が話せれば5歳でも6歳でもグローバル人材として立派に大企業務められることになってしまうじゃないか。
英会話ができたら、話して聞くことができれば本当にグローバル人材になれるのか。
今日は日本語で論理の講義をした。
言語の授業は、私達にとっては英語でも日本語でもどちらで学んでもいいのだけれど、「英語力が足りないから理解できなかった」という浅い気づきにしたくなかったので日本語を選んだ。
”「論理が大事」の意味がやっとわかりました。勉強することがまだまだありそうです。”
との感想。
気がついてくれてよかった。