アップデートされる道徳

もし僕に学校教育をコスト度外視で好きにいじりまわせる権限が与えられたなら、「議論の仕方」「感情のコントロールの仕方」「道徳(アップデート版)」といった授業を小学校か中学校で展開したい。
模範となる人格を持った人間、高潔な人物、というのはそういえば現代では全然見かけない。過去は見かけたのかというと定かではないけれど。

飲み込む道徳から、噛み砕く道徳へ

僕の時代の道徳の授業というものは、大抵教訓を含んだ物語があって、それを読んで、そこから何を学ぶべきかをシナリオどおりに抽出して飲み込む、という毛色が強かった記憶がある。共同体の構成員のパーソナリティに振れ幅が少なく、同質性が高いようなかつての状況であれば、「模範」というものは概ね誰にも同意されたし、それを飲み込んでおくだけでも社会ではきちんと機能する道具になったのだろう。

現代は(本当に基本の道徳は別として)それが通じなくなっているなぁ、とよく思う。ジェンダー。LGBT。移民。マイノリティ。人種。政治思想。顕在化した多様性の中で、信じるものも利害関係も育ってきた環境も異なる人々が同じ地表を共有しなければならない状況では「これが正しい姿ですよ」なんてものは一意に決められるはずがない。何もかもがケースバイケース。

しかしケースバイケースという言葉はそれがケースバイケースであるということしか教えてくれず、「ではどうしろと?」という疑問には答えてくれない。結論がひとつに定められない場合に有効なのは、結論に至るためのプロセスを学ぶことだ。状況を分解し、噛み砕いて、そのケースにおいて前提とした判断基準のもとでの最善の選択肢は何なのかを導き出す手順。これであれば学べる程度には体系化できる。

かつての道徳から除去すべきもの、加えるべきもの

これまでの飲み込む道徳から取り除かなければならないのは、正しさそのものを固定化する姿勢だろう。信仰といってもよい。「このケースにおいてはこう対応するのが正しいのだよ」というのはケーススタディとしては結果論的に学べるかもしれないが、そもそも多様性の組み合わせパターンが多いために抽象化しづらいことが問題の前提条件として組み入れられてしまっているので、転用自体が機能しにくい。

学ぶべきは、まずは似た状況であってもインプットされるパラメータが変われば最適解が変わることへの理解。想定されるパラメータの把握方法。信仰ではなくロジックを用いた選択肢の比較衡量の手順。利害関係者を調整していくためのプロセス。そして人情や心の観点をないがしろにしないバランス感覚。

たとえば性自認が女性でありながら身体が男性である人物は、トイレはどちらの性別のものを使うべきか。
コストぎりぎりで細々とやっている飲食店が「外国語対応が難しい」と表明することを、「排外主義的」と攻撃するのは正しいのかどうか。
異文化において女性が差別的な扱いを受けている場合に、文化を尊重するのか、差別解消のために干渉するのか。
国民の幸福度が高い独裁政権は斃すべきかどうか。

おそらく明確な最適解がない問題が大多数で、何の観点を重視するのかによって答えが変わってくる。であればそれらの観点を整理して、利害関係をひたすら調整していく姿勢そのものが、「道徳的」と言い表されるべきなのだろうと思う。

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