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情報の観点から見る『教育』と『支配』
今回の記事は、『教育』と『支配』の関係を、情報の観点から議論していくものになります。
また、それに関連して、教育現場などのグループ活動における『意思決定権の奪い合い』についても触れていくことにします。
内容は以下となります。
✅️1. 『教育』と『支配』の違いは?
世の中では、実に様々な『教育』と称される活動が行なわれています。その中には客観的に見て「どう考えてもそれは体罰だろう」と思えてしまうようなことすら、こう呼ぶ人達がいます。
まずは、そもそも「教育」とは何か、についてです。これは、本当に人によって答えが異なってくる部分かと思います。ですが、私の中ではほぼ確信となっている、1つの答えが存在します。それは
『教育』とは『対象者が、情報から自らの力で物事を判断し、意思決定ができるようにするための活動』
です。
例えば、世の中には、子供を育てられている非常に多くのご家庭があるかと思います。そういったご家庭では、「子供に対してどう接していけばよいのだろう」と悩まれている方も多いのではないでしょうか。
「騒いだり暴れたりしてあんまり周りに迷惑をかけられても困るし、かといって病気になってるのに黙っていたままなんてことになったら…」なんていう思考が常に頭をグルグルしているなんて経験をした方もいらっしゃると思います。
そもそも、もし今仮にあなたが子を持つ親だとして、その子供と自分の違いとはなんだろう?と考えたことはありますでしょうか。
「今は右も左も分からないから親が支えなければいけない」という関係でしょうか?もしくは「立場上、子は子であるべきだし、親としての権威を振りかざすことも時には重要だろう」という関係でしょうか?
このとき、多くの方が陥りがちな罠があります。それは「子供に関する意思決定を親が勝手にしてしまい、その能力を育む機会を奪い続ける」ことです。
私の過去の記事をお読みいただいている方はもう聞き飽きたかと思いますが、意思決定は情報に基づいて行なわれるものです。つまり、私達が子供達にしなければいけない一番の活動(=教育)は『情報と、その取り扱い方の伝授』なのです。
意思決定の仕方さえ分かってしまえば、その子供は自分の力で物事を判断し、行動を起こせるようになり、トラブルの多くを自らの手で解決する力が自然に備わるようになるでしょう。
しかし、「あまり知識をつけられても、親に対して生意気な態度や言動を取られるかもしれない」と不安に思う方もいらっしゃるかもしれません。これについては最悪の事態を想定すると確かにリスクはあるように感じられるかもしれませんが、そもそも集団で生活するというのは、そういうものなのだと思います。
だからといって、そのリスクを回避するために意図的に子供の意思決定権を奪い続けるのは、何も判断できない人間を作り上げることになります。
私としては、そのほうが将来的なリスクが高いように思えますし、むしろ情報から意思決定ができるようになった人間と協力して生活できるのは、圧倒的にメリットのほうが大きいように思えます。
少し話を戻します。先程「騒いだり暴れたりしてあんまり周りに迷惑をかけられても困るし、かといって病気になってるのに黙っていたままなんてことになったら…」という例を挙げたかと思います。
もし、自分の子供に『意思決定をする力が十分に備わっている』のなら、「ここで騒いだり暴れたりして迷惑をかけたら、近隣の方に訴えられるかもしれない。そうでなくても自分の家にクレームが来て、将来的に家族ごと肩身が狭い思いをするかもしれない」という判断からそのような行動は慎むでしょうし、「病気になった場合、まず誰にどうやって連絡すればよいかは分かっているし、重いものであれば我慢していても自然治癒はしないだろう」という判断から適切な行動を起こせるでしょう。
いかがでしょうか。『教育』と『支配』の違いを明確にし、子供に対して適切で、本当の意味での『教育』をすると、親と子供の双方にメリットが大きいような気がしませんか。
まとめると
『教育』とは、『対象者が、情報から自らの力で物事を判断し、意思決定ができるようにするための活動』である
『支配』とは、『対象者に意思決定をさせないで、支配者の利益のために動いてもらうこと』である
『支配』より『教育』のほうが圧倒的にメリットのほうが大きい
となります。
✅️2. 毒となる支配者に立ち向かう方法
1.で議論した内容は、正直言ってしまえば深く考えていない親御さんも多いでしょうし、また、親と子の関係だけではなく、例えば学校や会社で、グループを管理する立場の人達の存在もあります。
この方達は家族の一員ではないですが、共に情報のやり取りをし、行動を起こしていく仲間です。そして通常は、そういったグループ内の各個人は『情報から自らの力で物事を判断し、意思決定をする』ことを求められます。
したがい、管理者が管理対象者を『教育』(もしくはその環境を用意)する必要性が生じます。
しかし、世の中の多くの人間は『教育』と『支配』を履き違えており、管理者という立場を利用して、グループのメンバーを『支配』している、という状況が非常に多いように思えます。
誰かの『支配』下で動くグループというのはどういうものなのでしょうか。
基本的には、立場が上の人間の意思決定のみが尊重されます。また、支配者は、支配をすることで『楽に、かつ自分だけが多くの利益を得られる』状況を作ることができます。
さらに、「テイカーと闘うための情報整理」の記事内でも述べたように、その手の人間は怠惰な(=情報と向き合うモチベーションが低い)事が多いです。
つまり、各メンバーの情報をまとめて、そこから意思決定を行なうことをサボりがちになります。(グループ全体が崩壊しない最低限の情報収集はするでしょうが、例えば、各メンバーのメンタルヘルスに関する情報から何か問題が浮き彫りになったとしても、それを解決する行動を起こしたりはまずしないと思います)
そして、その状況が長く続くとどうなっていくのでしょうか。
実は、私はかなり昔まで『人の頼みを断ると自分の楽しみが減る』という思考回路で、色んな人間の色んな欲求に応えてきた過去があります。
しかし、人間というのは、残念ながら(緻密に集められた情報群からではなく)色んな欲求に基づいた突発的な行動を起こすことも多く、それにいちいち応え続けていくと自分が破滅させられるまで利用されることになる上、自分だけでなく相手の(情報に基づく)意思決定力も下がっていくため、結局は誰も得しない空気が作られていきます。
この失敗を踏まえて私の経験からはっきり言えるのが、『自分の意思決定権を踏みにじる人間には必ず拒否反応を示す』べきだということです。
グループは、グループの皆が幸せになるために形成されるべきものです、グループのために自分の意思決定を一方的に蔑ろにされるのは本末転倒ですし、絶対に避けるべきでしょう。
✅️3. グループ活動に潜む罠
私は何度か、「比較的に能力が優れているわけでもないのに、普段から周囲に高圧的な態度を取っていた人間が、なんとなく組織の一部をまとめる立場になる(以下、なんとなくリーダーとします)」というシチュエーションを目の当たりにしてきました。主に部活内だったり、校内のグループでの活動などでです。
なんとなくリーダーは、公認のグループ長的な役職になる場合もあるでしょうし、役職ではないのに何故か発言権が強い、という立ち位置の人間になったりもします。(経験上、後者はかなりタチが悪い事が多かったです)
おそらく、この記事を読んでいるほぼ全ての方々にとって、過去にその手の人間に心当たりがあるのではないでしょうか。そして、そういうグループではどういうわけかかなりの確率で一部の人間がいじられたり、嫌がらせをされるような文化が芽生えます。
しかし、そのグループを客観的に管理や評価をする立場の人間(「先生」や「役員」など)からすれば、効率的にグループが運用されるような空気は願ったり叶ったりでしょうし、自分たちがやり取りをする人間がなんとなくリーダーとだけで済むので、まさに至れり尽くせりです。
そして、私の経験上、いじめというのはそういう文化の延長線上で発生します。
これを避けるためにはどうすればいいでしょうか。そもそも避ける必要がある理由は「グループ活動としての生産性が低くなったり、一部の人間の意思決定権が強くなりすぎる」からです。
生産性が低い上、一部の人間にとって精神的、肉体的に危害が加えられてしまうような状況に意味があるとは私には思えません。
私からは、以下のような方法を提案します。
A. リーダーを様々な観点から慎重に決定し、その権限に制約を設ける
B. 各メンバーの役割(つまり義務となる範囲)をきっちりと決める
C. 一日の間で、ズルズルとグループの空気を長続きさせず、メリハリを付ける
D. 生産性の低いグループは簡単に公認で解体できるようにする
以下、簡単に説明します。
📑A. リーダーを様々な観点から慎重に決定し、その権限に制約を設ける
これは、なんとなくでそのコミュニティで権利を強い人間を決定しないようにするためです。主な進め方としては、その人をリーダーにすることでどういうメリットがあるかの意見をかわす場を作り、そこで決定していきます。
なお、「暗黙的に立場が弱い人を無理やりリーダーにして駒にしようとする人間」も、私の過去の経験上存在したので、そのコミュニティを管理する人(「先生」や「役員」など)が、その意見交換の場の流れや雰囲気をきっちり洞察し、それを防止するように努めます。
あくまで、リーダーの決定は信頼のできる情報に基づき、論理的アプローチで慎重に行ない、かつその候補者の意見も尊重すると問題は起きづらいと思われます。
📑B. 各メンバーの役割(つまり義務となる範囲)をきっちりと決める
グループで活動を行なう大きなメリットの一つが、可処分時間が人数分利用できるようになる点です。
ですが、一部の人間に大きな負担がかかるような役割分担はそのメリットを活かせません。無理のない役割分担が効率化のカギとなります。
📑C. 一日の間で、ズルズルとグループの空気を長続きさせず、メリハリを付ける
活動時間を超えてグループの活動の空気を持ち込むと、意味もなく精神的負荷がかかります。少なくとも、自分の担当範囲を完了している人を余計に拘束するようなことは禁止にすべきです。
📑D. 生産性の低いグループは簡単に公認で解体できるようにする
自浄作用が無くなり、機能不全に陥ったグループは外部から簡単に解体ができるようにしましょう。生産性も高くないはずなので問題は無いはずです。
また、『生産性は低いがそのグループの空気は居心地が良い』ということもあるかと思いますが、そういう場合は解体しても別の方法で集まることもできると思います。
✅️「集団で生きるということ」のまとめ
今までの議論から、『教育』と何か?何故必要か?『支配』を目論む人間の傾向と対策とは?についてが、ほんのりと見えてきた気がする、という方もいらっしゃると思います。
意思決定権を奪われるということは、自分の感覚や考えを自分自身の人生から蔑ろにされ、搾取され続けるということです。
自分の痛み、苦しみは自分にしか分かりません。意思決定権を守らなければならない理由はそこにあります。しかし、社会生活の中ではその権利を守ることが難しい人も多いのが現状だと思います。
まずは、『支配』には拒否反応を示し、『教育』を意識することから始めてみませんか。私の一意見を述べさせてもらえば、それ以外にこの社会全体の悪循環とも呼べる状況を打破する方法はないです。
以上です。お読みいただきありがとうございました。
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