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アクマのハルカ 第8話 もう悪魔にならないで!それよりも自分の人生を生きて欲しい


 香月麻莉亜(こうつき まりあ)が立っていた教室には赤い雲が消え、左足にしっかりとコードバンの靴を履いていた。ストッキングに傷みはなく、左手には拳銃ではなく、チョークを握っている。
 ただここの教室には、悪魔悠(あくま はるか)が居なかったから、麻莉亜はとっさに誰にというわけではなく、生徒たち全員に聞いた。
 「悪魔悠は?」
と。回答したのは真弓(まゆみ)で、
 「空間(あくま)は私で、悠ちゃんは松病悠(まつや はるか)じゃない?合体しないでよ。」
 と可笑しそうに笑う。
 麻莉亜は、悠が人に戻ったが、真弓が悠の居た場所に就こうとしているのだと思った。しかし、そこには触れず、
 「悠はどこに行ったの?」
 と聞いた。
 今度は奈津美(なつみ)が不思議そうな目で麻莉亜を見つめ、
「麻莉亜先生に言われて、治療のため病院に行ったよ。」
 と答えた。麻莉亜は、悠にされた行為を許せはしなかったが、それでも悠が麻莉亜に執着するのではなく、自分の人生に向き合って欲しいと願った。

 教壇に立ち、教室を見回す。そして、教卓の中に手を伸ばした。そこには録音機が4つ、5つ、6つあった。丁度、クラスの仲良しグループの数と一致した。

 麻莉亜はそれを教卓に並べた。その様子を見た生徒たちは膠着し、息を呑んだ。

 「これは学校に報告し、学則に従い、対処します。」
 麻莉亜は毅然と生徒たちの目を見た。話しながら、ほんの少し前までは気付いていたけど、見て見ぬふりをし、逃げていたのが自分だったと思い出した。生徒たちと向き合ったことで、盗聴は許せないという自分の本音を知り、心を外に出すことが自然に出来るようになっていた自分に驚く。

 そこに声を上げたのは叶海(かなみ)で、
「そんな。麻莉亜先生ごめん。なかったことにして。」
 と言う。麻莉亜は、この教室の雰囲気が命をかけて闘わなければならない程、怖かったその苦悩を、分かってくれる人なんていないのだと分かった。
 そして静かに首を横に振った。
 「私は辛かったから、向き合わないと超えられない。なかったことには出来ない。」
 叶海に堂々と回答し、クラスを見渡した。許しを請う生徒たちの目は、受け持った初日に感じた羨望の目とは違うが、それでも注目を受け止めなければならなかった。
 愛情にしろ請いにしろ受け止めるのは人の心ゆえ重たいもので、受け取るにも才能が必要だと感じた。

 麻莉亜と目が合う生徒たちの誰一人口を開かない。麻莉亜が揺らがないのを気づいたから声を出せなかったのだろう。
 言葉ではどうすることも出来ないと感じた生徒たちから「お願い」と言わんばかりの目が麻莉亜に集まる。
 だから、麻莉亜は、せっかくの注目を使おうと思い、生物の授業を始めた。

 「46億年前、生まれたての地球はマグマで覆われていました。そんな劣悪な環境の中で生命が誕生し、絶滅の危機を幾度も乗り越え、私たちになりました。」

 麻莉亜はふと時計を見上げる。46億年という長過ぎる時を想像だに出来ないと思った。そして、次から一気に話すため息を深く吸った。

 「このように進化出来たのは、生命が自分のために生きることを考えて行動したという生物学者もいます。

 だけど私は、進化には、他を受け入れていくという心の成長があったのではないかと思っています。
 なぜなら、小さな分子たちは互いに結びつき大きな分子を作り出していかないと、生き残れなかった。それは自分と異なるものを受け入れていくという心の成長なくしては出来ないからです。

 もう少し進化した場面においてではありますが、似た様な研究は、1972年にノーベル生理学・医学賞を受賞した故ジェラルド・モーリス・エデルマン氏がされています。進化には心というものの存在があったのではないかと。」

 目が合う生徒たちに麻莉亜は口角だけで笑みを作った。

 「そして、自分にないものを受け入れていくには真実を知って、それについての自分の感情と向き合い続けることであり、
 声の大きい他者に巻かれその者とともに、でっち上げた事実に従い誰かを非難し続けることとは違います。
 後者はただの排除よ。」
 先ほどまでの笑みは塵のように消え、一気に強い口調となった。排除との言葉に涙を流している生徒たちもいた。自分がやってきたことを理解したのだろう。



 教室は静かだった。嵐の後とは当にこのことかと思った。麻莉亜は、胸が一杯になった。

 強いものから離れる勇気を持てない。信じるものが欲しい。和から乱れることやみんなと違う考えを持つことが怖い。いつの間にか声の大きい者の信者になり、誰かを共通の悪とすることで自分の居場所を作る。それを正当化するために事実をでっち上げる。
 それは魂を売る悪魔の業だと分かっていても抜けられない。

 他方で共通の悪になった方である麻莉亜も、どうにも出来ないと思っていた。だから黙ってしまっていたがそれは間違えだった。

 生徒たちの心は、今もまだ半分は悪魔で、半分は悪魔のままでいることへの自己嫌悪かもしれない。しかし完全服従からは解放されている姿を見て、麻莉亜は、話せて良かったと思った。 



 録音機全てを白衣のポケットに入れて、職員室に向かった。麻莉亜が歩く音が消えるまで生徒たちは座ったまま身動きを取れなかった。

 麻莉亜は、生徒たちと目を見て話すことが出来る今の自分の方が生きやすいし、ずっと好きと思った。この子達とはここまでだけど、新しい自分と生きていくのはここからだと思った。

 窓から覗く雲が、のしかかるように重たい梅雨空は昨日までの自分のようだった。麻莉亜は窓から視線を外し踵を返して前に進んだ。

(アクマのハルカ 第8話 もう悪魔にならないで!それよりも自分の人生を生きて欲しい 了)

※参考文献
邦訳 「脳から心へ―心の進化の生物学」ジェラルド・モーリス・エデルマン  金子隆芳 訳 新曜社 1995年
第8話 「人の進化には心というものの存在があったのではないか」という研究を指摘する箇所は上記文献を参考にしています。

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