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如何なる時も言葉で伝えていきたい

簡単だと思った。理不尽な思いを写真にすれば、真実と信用してもらうことに苦労はないし、分かってもらいやすい。ただ写真を使うことは、見えない思いを伝えるための記事であることとは脱線するが、事実は明確になる。それで良いじゃないかと思った。私は不愉快だし、許せないし、沸き上がる哀しみを簡単に表現できる。そう思って、結婚式での義父の嫌がらせの写真を載せた。

載せてからは思い出さなくなった。しかし、数日経ってから届いたのは、「思いやりは静かに表現していきたい」のときからの読者だと言ってくれる方の声だった。
「お願い」と題されたメッセージには、「こんな人に足を引っ張られないでください。いつ、如何なる時も言葉で表現して欲しい。こんなどうでも良い人間に翻弄されないでいただきたいです。余計なことをごめんなさい。本当にごめんなさい。お願いします。」
とあった。自分でも分かっている。私にとっては見えない心を見せるのが文章で、絵や写真は載せてはいけない。だから、文章と写真は無関係のものとし、文章から情景を浮かべて欲しいと思って書き続けていたのだから。それでも、真実の証明が楽な写真に逃げたくなった。しかし、証明しなければならないのは、哀しみという感情でそれは写真には写っていない。だから、意を成さない余事記載と分かってはいた。
あの時、私は心を書くことではなく、不快な思いを晴らすことに行ったのだと思う。
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気持ちを分かってもらえない相手とは、対話を諦める。意を汲んでもらう努力をしない、意を汲む努力もしない。
しかし、離婚ができないから不倫をする。思い通りにするために嘘をつく。暴言で伝える。暴力で表現する。気に触れば無視をし、逃げるという悪意の遺棄を選ぶ。事後処理はママにお任せする。
そんな夫に近づく領域に入ることは、思い通りにならない時に、自身の怠慢さを他者責任に転嫁する不精な生き方の次元に向かうことに他ならない。そこは人間として生きるために、絶対に踏み込んではならない領域である。
勿論、「どうせ分かってもらえない、言葉が通じない」ということもあるだろう。それでも自分が最下層の次元に足を踏み入れてはいけないのだ。
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話は遡る。大学院の頃、私は人前でスカートをめくられ、パンツ丸出しにされるなど、現在弁護士をやっている男性の集団からセクシャルハラスメントを受けていた。そんな究極の性犯罪の時ですら、相談相手の大人に言われたことは、
「先ずは自分で伝えなさい。」
とのことだった。
「私の言葉は、セクハラしたい欲求に溢れる人には通じない。」
と言っても、
「そうかなぁ?誠意を持って伝え続ければ、どんな相手にも言葉は届く。その言葉は、加害者に効くよ。」
そう言って、背中を押し続けてくれた大人がいた。怒りを権力や暴力で相手を伏せてはいけない。使うのは如何なる時も言葉で、言葉だけが誠意で通じることを教えてもらったし、相手次第で伝えることを怠ることは怠慢だと知った。

更に、別の大人が言葉で闘うことを支えてくれた。「相手に言葉が通じないのなら、
北海道の弁護士を紹介するから、負けてはいけない。」
と言ってくださったのは、東京のとある弁護士会の会長の先生だった。

言葉を諦めることは、如何なる時も許されないのだ。
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写真で伝えることは、分かりやすく、インパクトを与えることができる。そして、そのやり方がフィットしている素晴らしクリエイターの方が沢山いらっしゃる。実際に私も沢山の写真から感動をいただいているのであって、写真を用いる事を肯定している。
しかし、見えない思いを伝えることを目的としている私にとっては、写真を使うことは意を成さず、不適切である。
とても苦しい性犯罪にすら、言葉で向かって生きてきたのに、今ここで、画像を用いる事は、自分を壊す第一歩になりかねない。勿論、調停では、真実の証明だから音声や写真が必要だろう。しかし、創作の場においては、立証活動は必要ない。
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多く素晴らしい読者の皆様に支えていただき、創作活動を続けることが出来ている。日々の感謝を忘れず、今年もまた思いを言葉で伝えていきたい。それは、いついかなる時であっても。


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あやとりりい
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