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虎に翼、寅年生まれ祖母2人の戦争体験

私には2人の祖母がいます。

ともに92歳まで大病もせず長寿を全うし亡くなりましたがどちらも10代の青春時代に戦争時代を生き抜きました。生前に戦争体験を語ったことはごくわずか。私の記憶も完璧ではないのですが私が聞いた戦争体験を残したいと思います。


ともに寅年生まれの逞しい祖母たち。
虎に翼…とは関係ないのだけど戦争を生き抜いた強い女性です。
父方の八千代は満州から引き上げを経験、母方の八重子は福岡大空襲を経験しました。

縷々死体の道を満州から決死の引き揚げ

父方の祖母は田舎で育つ、十人兄弟の長女。
終戦数年前の10代後半ごろ、親戚の叔父さんに「都会の満州に出稼ぎに行かないか」と誘われ田舎暮らしだった祖母は都会への憧れから、その叔父と満州に渡ったそうです。

当時、満州の新京(長春)は中国大陸のなかにある大都会。
田舎とは比べ物にならないような建物たち、戦争中とは思えないような栄えた街でそこで10代の友人と過ごす青春はそれはそれは楽しかったそうです。

そこで事務経理のような仕事をしていた祖母、しかし当時のソ連が侵攻してくるということでまだ10代の祖母は満州から北朝鮮を通って命からがら必死で歩いたそう。

その道中、道の両側に大勢の人々が腸チフスにかかって亡くなった死体を通った経験。この時は自分も死ぬかと思ったそうです。その後なんとか韓国の釜山、そして引き揚げ船で博多に戻ってきた祖母。

その後田舎に戻り祖父(同じく中国大陸で建設などをしていた経験がある祖父、現地では知り合ってなかった)と結婚。

ニュータウンで一番良い立地を抽選で引き当て今で言うコンビニのような雑貨屋を営み、街で唯一の煙草販売許可も抽選でゲット。そして祖母は電電公社に就職出来「街に一軒テレビがある家」というくらい裕福な家庭を築けたそうです。(母が結婚の時に庭に池があって驚いた逸話)

そんな祖母は私の名付け親。
「わたしゃーえらいふが良い(強運)けん、あやちゃんもそうなるように綾っていう名前を付けたんばい」と旧姓の頭文字から名前をつけてくれました。

確かにかなりの強運、寅年の逞しい祖母。その血を引き継いでいるかもしれません、懸賞とかは当たりやすい。(娘はもっと当たりやすい)
ほんっっと、強運にも生きててくれて感謝です。
 

もう1人の福岡大空襲を経験した祖母

母方の祖母も十人兄弟の長女。
福岡市中心部で暮らしており、福岡大空襲を経験。

1945年6月19日午後11時過ぎに発生。 福岡市上空に飛来した米爆撃機B29から1500トンを超える焼夷弾が投下され、902人が死亡、244人が行方不明となった。

読売新聞オンラインより

祖母は親友と一緒に逃げていましたが、祖母の親友はすぐ近くで衝撃で亡くなったらしく、その瞬間を目の当たりにした祖母はその光景を忘れる事ができないと言っていました。
ちなみに母方の祖父は私が2歳の頃に亡くなったので思い出はほぼ無いのですが、戦地に赴いて相手の兵士を殺した体験を苦々しく母には語っていたようです。

戦争が終わって、祖母は紹介で祖父と結婚。
リアカーで移動しながら花を売る仕事を始めました。お花の先生に気に入られるよう人の好みを知り花を仕入れ売るを繰り返し。
3人姉妹が生まれ(末っ子が私の母です)暗い離れの共同便所がある四畳一間のような場所に暮らし、すごく貧乏だったと母は言っていました。
ご飯もあまり食べられず、いつも祖母が我慢して子供たちのために分け与え毎日必死に花をリアカーで売って歩いたそうです。
ついに柳橋連合市場の向かいに自分の店を持つ事ができ長く花屋を続けました。
 

バイタリティお化け、祖母の最期

どちらも夫(祖父)を60歳ほどで癌で亡くしたので長年ひとり。
父方の祖母は私の育ての親。仕事が忙しいうちの両親に代わり、私は父方の祖母に5歳から9歳まで育てられました。

やがて私も3姉妹、父の妹である叔母の子供3人。
最大で計6人、9歳から1歳まで孫たちを日中1人で育てた祖母!

今3人育てて苦労する私からしたら頭が上がりませんが、保育園の送り迎えもブイブイ軽自動車をぶっ飛ばし、太鼓や三味線に日舞も習いながら孫育てをしていた祖母。

強すぎるよバイタリティお化け!

電電公社、今のNTTで勤めたので年金がえらいことになっていて国内海外旅行も相当行っていて旧満州にも行ったみたいです。

最後は亡くなる数ヶ月前まで車の運転もして元気だったけど何かのきっかけで急激に弱り、最後は病院で家族間に合わず1人で亡くなりました。

母方の祖母は祖父の死後長く一人暮らしをして、紆余曲折あり母が自宅で介護。最後呆けたり性格がキツくなった祖母ですが、母は小さい時に食べ物を分けてくれたり必死に働いて貧乏ながら育ててくれた祖母の背中を見て育ったので、入院しても毎日お見舞いに行きご飯を食べさせに母は祖母のもとを通いました。

母がいつものように昼ごはんを食べさせ、夕方に突然病院から連絡、眠るように祖母は1人で亡くなりました。
私も突然のことで近くに住んでいたので急いで駆けつけ、まだ暖かい祖母の手に触れる事ができました。

たくましく生き抜く女性が好き

どちらの祖母も、とても逞しく清々しい女性でした。
そんなふうに「自分の人生を主体的に生きたい」と思います。
色々あっても陽気で明るい祖母でした。寅年の2人がラッキーで生きてくれたから今の私がいます。本当に感謝です。

夏になると私たち子供の頃は夏休みの登校日があり平和学習がありました。
先祖たちの生き様に想いを馳せ、今の平和に感謝して子供たちに何が残せるかを考え続けていきたいと思います。


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