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~鬼滅の刃からの学び⑧~炭治郎は心理学のスキルの宝庫part3「失敗は別として、相手の存在は認める」

~お読みになる前に~

基本的にテレビアニメ立志編と劇場版無限列車編を観た上での、個人的な学びや感想、気づきを書いています。
ネタバレがあることと、知識が充分でないことをあらかじめご了承ください。


「鬼滅の刃からの学び」も8回目を迎えました。
今回は、始めの頃に2回続けてお話させていただいた、
炭治郎から得た学びについてです。

1回目、2回目はコチラ☟


私自身、2010年からNLP、2011年から交流分析、その他にもいろいろな心理学を読みかじったり、いろいろ学んできました。

実際、学んでみると、
同じ心理学の中でも派閥・流派があったり、
お金や利権など生々しい問題があったりするのですが、
とどのつまりどの心理学も基本的に大切にしているのは、

自分・相手の存在を認める
ってことだと思っています。

具体的に言うと、

人間はまさに十人十色であり、
考え方、好み、習慣などは人それぞれ。

生きてきた環境や経験が違うのだから、当然です。

なので、そこを踏まえて「相手」がどんな人なのか客観的に受け入れて、理解し、
その存在を尊重する、ってことが人間が生きていくうえで大切にしていきたいことだな、って思うんです。

「相手」つまり他人だけでなく、
自分に対してもそうです。

自分がどんな人なのか客観的に理解して、
自分を認めてあげる。

逆に、自分を大切にできないと、
他人も大切にできない。

相手を無理やり好きになるとか、
嫌いになっちゃいけないとか、
そういうことではありません。

認めるんです、
その「人間」の存在自体を。


炭治郎は、
鬼を倒すため、禰豆子を守るため、
頑張っている自分を励ましたりほめたり。

また、長男として育ち、自覚し、生きてきた自分を認めています。

そして、周りの人、一人一人をすっごく理解しようとしています。

いや、鬼ですらも。

起こった出来事、やっている行動は許せなかったとしても、「相手」その人そのものの存在を否定しないですよね。

下弦の伍の累から感じる匂いで、人間の頃の悲しい想いを感じ取り、温かな手を差し伸べる。

また、鼓の屋敷では、元十二鬼月の響凱に対しても実力を認める言葉をかけていました。

それと。

きよちゃん、すみちゃん、なほちゃん。

3人ひとまとめのような感じで見てしまいがちですけど(私も)、
炭治郎は、ちゃんと彼女たち一人一人の名前を呼びます。
一緒に仕事して一緒に生活しているアオイちゃんやカナヲちゃんならともかく、
炭治郎たちのように怪我の治療で一時的に滞在している人にとっては、彼女たちの存在は一過性なので、
彼女たちも自分たちの名前を覚えてもらえないことを気にしないかもしれません。

私も過去病気で入院したことがありますが、看護師さんの名前を全員覚えていません。
(すみません🙇‍♀️💦💦)

でも、
炭治郎は彼女たちの存在を一人一人認識し、
全集中の常中を習得するための協力をお願いしたり、
一人一人の名前を呼んで話しかけたり、
一人一人に感謝して人間関係を築いています。

それは、アオイちゃんに対しても、カナヲちゃんに対しても同じでした。
その人の長所や頑張りを言葉にしたり、
悩みに共感しようとしたり。


もし、自分がそうされたら。

すっごく嬉しくないですか???


自分のこと見てくれているんだな

気持ちをわかってくれようとしているんだな

状況をわかっていてくれていたんだな


自分の存在が認められてる!と感じると、
嬉しいですよね。
実際、炭治郎にそういう働きかけをされた人たちはみんな嬉しそうでした。

善逸、伊之助、しのぶちゃん、カナヲちゃん、アオイちゃん、
すみちゃん、なほちゃん、きよちゃん、村田さん、
そして、累、響凱、母蜘蛛、手鬼、
多分他にも・・・。


あ、余談ですが。
無限列車編で煉獄さんに名前を名乗られた時の猗窩座も嬉しそうでしたね。
しかも「俺は猗窩座」って名乗り返してたし。


私、過去に名前に関して失敗した記憶が一つあって。

同僚となにか仕事の相談をしている時、
何気に
「あなたは●●してもらってもいい?」
って、数回同僚を「あなた」って呼んだんです。そしたら同僚に、

「あなた、じゃなくて名前を呼んでくれないかな」

って言われたことがあって。
その時は、そんなに気にすること?って思ったんです。

私自身、男性上司や先輩に
「お前」「てめえ」
っていう二人称代名詞で呼ばれることに昔から慣れていたので、
自分の中では普通のことでした。

でも、
一人称で呼ばれない=存在を認められていない、
って感じる人は少なくないんだな、って後になって気づきました。
(まあ、そもそも「お前」「てめえ」もよくないですけどね)


人間って、承認欲求があるから、
やっぱりそこが満たされると嬉しい。
逆に、相手にそれをしてあげて、
相手が喜ぶと安心する。
自分で自分にそれをしてあげると、
自信につながる。


だから、起きてしまった失敗や過ちを、
その人の(あるいは自分の)全人格を表すかのように責め立てたら、
ヘタするとその人は立ち直れなくなる。

SNSって、それが無意識に横行しちゃてるから怖いし、悲しいです。


人間って、
誰でも失敗するし、過ちを犯すし、
聖人君主ではいられない。

それは自分も同じ。

失敗や過ちの出来事はよくないけど、
それはそれとして次に活かすことにつなげていけばいい。

責め続けても解決にはならないし。

自分だって同じ失敗をするかもしれないし。

じゃあどうしたら現況がよくなるか、
解決策を立てるほうに注力したほうがよくないですか?

だから、

自分や相手の「人」の存在自体は認めて、
別に考えていきたいものです。

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