【毎日習慣】若さの賞味期限
わかりやすく腐っていた。
どちらかといえば可愛いと持て囃されてきた人生のなかで、自分の衰えを自覚していく。見た目や若さで補整されたバフは時間経過で剥がれることは知っていた。
外面みたいな衰えゆくものよりも内面磨きのほうがよっぽど有意義な生き方だと信じ込もうと思っていたのかもしれない。
昨年末から読みたくて仕方がなかった冨永愛さんのエッセイを読んだ。壮絶な家庭環境や思春期を経て、どのようにトップモデルになっていったのか。出産や、モデルのキャリア・マネジメントについて語られる言葉はどれも一流で、圧倒された。
読書感想文を書こうと思って、何もできずに1日が過ぎていた。小説は書けたけど、毎日習慣が1日おやすみになったしまったことが心に引っかかる。
でもとても言葉起こしできるような心の状態じゃなかった。思考停止状態だ。圧倒的な人生経験にただ言葉をなくす。語彙は消滅する。まだ、復活できていない。
それでも、思考よりも先に身体を動かそうと思っているわたしがいた。
美しさというものは自分からは見えない。鏡を通して初めて認識できるものである。
ああ、また美しさを追求する日々が始まる予感がした。
そんなこんなで、冨永愛さんにどっぷりな数日を過ごした。そのなかで、コメントでも話題に上がった山口小夜子さんの言葉が出てきた。
「私は世の中の全てを纏うことができる」
服とはなんだろう。身体を覆い隠すものだ。
アダムとイブが禁断の果実を食べて覚えた羞恥心、秘部は決まった場所でしか露出することは許されず、また特別な関係の人の前でしか曝してはいけない。
そういうことではないのだろう。隠すための服ではなく、魅せるための服だ。
オシャレの起源がどこだなんて専門的な話は知らない。スペインでアカミノキが染料として富の象徴だった頃、スペインでは黒い服を着た。一方、フランスのルイ14世は、深紅のうね織りのコートを着た。パンジーやバラが刺繍されたチョッキを着た。色彩豊かで豪華絢爛なことが富の象徴として対抗した。ルイ14世はヒールを履き、自分よりも高いヒールを履くことを禁止した。ハイヒールは男の靴だった。
イギリスからフランスに渡った「オートクチュールの父」と呼ばれる男が職人仕事であった仕立て屋を、クリエイティブなビジネス産業にして自身の店を構えた。
着たい洋服を着るためにダイエットしなければならないという感覚がわたしにはある。ジャガード織りのワンピースは体型で横に広がったりはしない。パターン通りの体型じゃないとワンピースは着こなせない。
けれどファッションは年齢によって「痛い」と嫌悪の対象となる。
だいすきだったワンピースはもう着られない。年相応の服装を、型にはまった生き方を人は人に強要する。
ボディポジティブが叫ばれる世の中で他人の体型をとやかく言うつもりはない。ただ、わたしは持て囃された外面が加齢とともに失われていくときに自分のアイデンティティーをひとつ失ったような気がした。
内面さえ輝いていればいいだろうと、鏡さえ覆い隠してしまえば自分の姿と向き合う必要はないのだからと考えることで気持ちを切り替えたつもりになっていた。
エッセイを読んで、そういう逃げた自分に叱られたような気持ちになった。やっぱりまだ、諦めたくないのかもしれない。
少しでも良く見せようと背筋を伸ばす。自分の自信を見せつけるかのように肩を開いた。