自由人の自由詩?✧♡
とても素敵な記事をプレゼントされた。
私は、自分のやっていることをそんなに意識的にやっているわけじゃないけど、いつも記事を読んで下さっている高木さんから、自分のやっている行為を「自由人の自由詩」というように、名前を頂いたのである。
「自由人とは、その人がその人独自の、宇宙で他にかけがへのない存在として生を享受(う)けたといふ自覚。・・・かなと思ってゐます。
つまりは、自由人であるといふことの悟りが、伝達可能な表現形式に対する模索を誘ふのではないかとわたしは感じます。」
なんというか、自分の行為に、名前を付けていただくと言う不思議な体験。凄いなと思った。
名前を付ける。
私が一番初めに名前という不思議さに気づいたのは、
アーシュラ・K・ル=グウィンの「ゲド戦記」。
同名のジブリのアニメは大コケしたが、あのアニメが「ゲド戦記」の素晴らしさを描き出せたかというと、全くそうは思えない。
原作は素晴らしい物語なので、是非、本で読んで欲しいものだと思う。
自分が生涯読んだいい小説のベスト3に入る。
いや、もしかしたら、ベスト1かもしれない。
ハイタカという少年が大魔法使いオジオンのところに弟子入りする。
ハイタカは早く魔法を教えてもらいたいのだがオジオンはなかなか教えてくれない。
魔法は、全体のバランスを崩すものだからだ。
どこかで雨を魔法で降らせると、地球のどこかの雨が減る。
そういう自然のバランスを崩すのが魔法だから、使わないに越したことはないというのがオジオンの考えなのだ。
しかし少年にそんな大人な考えがわかるわけがない。
ハイタカは切望している。
魔法を使えるようになりたいと。
そして魔法を使うと言うことは、相手の真の名前を知ることだとオジオンはハイタカに教える。
そうすると相手は、ハイタカに従うと。
真の名前を知ること?
アーシュラ・K・ル=グウィンのエッセイを読んだときに、名前が決まるともう情報が名前から流れ出してくるという話が書いてあった。
物語に出てくるお茶の名前を決めた時に、それがどんなお茶か情報がするすると流れ出してきたと彼女は書いてあった。
へええ?名前が決まると、もう情報が流れ出してくる?
昔見た映画「ダンスウィズウルブス」に、インディアンの中に入っていく白人の男性が主人公として描かれていたが、インディアンたちは彼に「狼と踊る男」という名前をつける。
映画のタイトルだ。
美しい長い髪を持つインディアンには「風になびく髪」という素敵な名前がついていたし、ある白人女性には「握りこぶしで立つ女」という名前がついていた。この名前の付け方面白い。
友人に、良香という名前の女性がいる。
元同僚である。とってもいい人だった。
国語を教えることにとても情熱があり、素直で真っすぐで、掃除が好きで、いつも職場のどこかに花を飾り、よい香りのする紅茶を淹れた。
私は彼女に「良い香りのする娘」という名前をつけた。
反対に彼女からは、「文の荒野に立つ娘」という名前をもらった。
私の本当の名前は文野という。
それで「良い香りのする娘」が、私に「文の荒野に立つ娘」という名前をくれた。
国語教師である彼女と私は、交換日記や手紙のやり取りをしていた。
互いのブログも紹介し合い、互いに交流をしていた。
私は彼女を主人公にした漫画も描いていた。
それはぽんぽこと言う狸に似た女の子と百済観音の物語である。
この漫画もいつか完成させてみたい。私のお気に入りの物語だ。
夢枕獏の「陰陽師」の中にも、名前についてのくだりが出てくる。
名前は「呪」であると。
陰陽師が、術をかけるときに、言葉をのべるのだが、それを「呪」という。
そして名前こそ、自分が生まれた時にかけられた一番初めの「呪」ではないか・・・という話になる。
名前。親の願いが詰まった言葉。
生徒の名前にもいろいろな詩的な名前がある。
花百(かお・百の花)
森之助のお兄さんは林太郎。
青珠(せいじゅ・珠のような男の子が生まれた)
天舞(ひらり・天女が舞い降りたように可愛かった)
前職場で、出会っていた子供たちの詩的な名前はかなり素敵だ。
親が詩的な人なんだろう。
反対に、キラキラネームの人を企業側は、採用を避けると、本で読んだ。
そんな名前をつける親はメンドクサイ変な親(モンスターペアレント)と決まっているからだという。
わからないでもない。
昔、子供に「悪魔」と名前をつけた親がニュースになっていた。
そんな名前をつける親とは友達になれそうにないし、できれば関わりたくない。私も息子にピカソって名前をつけなくてよかった。
私がネット上使っているハンドルネームは、春。
「春は花、夏ほととぎす秋は月冬雪さえて冷しかりけり」という曹洞宗を開いた道元禅師の言葉が好きだったからだ。
春生まれの自分にもぴったりくる。
名前の呪で。
または魂が望んで決めたことで。
今の自分がいるような気がする。
今は、本名の文野(あやの)にほぼ同じ、あやのんです。
ひらがなのあやのんは、ちょっとちゃかしな、のんびりした、楽しい感じ。
働いている時は、職場のことを、書くことはまずいことだったが、今は、どこにも所属してないし、自由人だから、本名であっても、どうでもいいのである。
そんな私のnoteの記事に、「自由人の自由詩」と名前が付けられた。
花束をもらったように思った。