ここで春を歩いている
あたらしい町に来て四日目。ようやく白紙に向かうことができたこの夜はうすあかるい。ただいまと言いたい気持ち。(開かれているその目に向けて言う)
引越してきた当日、諸々がひと段落した私たちはひと息つくこともなく歩き出した。ただ歩くためだけに歩き出せる町である予感を感じたのだろう。それから毎日いろいろ理由をつけてはほっつき歩いている。4月の青森は春の入り口をもう一度くぐり直しているよう。長い長い3月にも似て、桜のつぼみはまだ固く、油断して薄着になれるのはもうすこし先みたいだ。
やさしさという言葉が指すものが一体何であるのかわからない。
やさしいねと言われても、やさしい人になりたいと願っても、やさしさを言い表すことはどうにも難しい。ただ、やさしさを感じ取るとき、やさしくされていることを漠然と、それでいて鮮烈に理解する。やさしさが何かは相変わらずわからない。でも、ここにあることがわかる。それだけがわかる。
この数日出会った人にやさしくしていただいて、そのひとつひとつを胸の内にてつぶさに見つめれば、うっかり涙が出そうなほどあたたかくまばゆい。ここに確かにあるけれど、まだ私の言葉にならない。もしかしたらこの先も言葉にはなることがない、ただわかることしかできないもの。書けないと思い知ることの気持ちよさ、言葉で書かれたものからは受け取ることのできないなぐさめよ。そうしたものがちゃんとここにあるから、私は身を捩りながらも書こうとする。言葉にならないものを守るような格好で書いているような気がしていたけれど、ほんとうは言葉にならないものたちに支えられ、見守られている。
どこにいても、私がいないところに、あなたがいる。
あなたがいるところに、今、私がいないように。
ここで受け取るとき、ここで受け取ることのないあなたと一緒にいる。いつだって。関わり合っているとわかっているから、私はこのおおきなやさしさの中で安心して眠ることを選ぶ。同じようには選ぶことのできないあなたの存在を引き連れてゆこうとする。漠然と、それでいて鮮烈に理解できるあかるさの中へ、一緒に。
この世のあらゆるかなしみにほんとうに無関心でいられる人はいないと思うようになった。かなしみへの抗い方も問の立て方もさまざまに異なり、それを不均衡と呼ばないための言い訳かもしれない。気づいていないだけで、私たちはかなしみやよろこびで互いをふるわせあっている。あとは気がつくだけ、あるいは思い出すだけでいい。
よろこびは、安心は、大丈夫は、汎用的なものであるべきだ。自分ひとり幸せになったって仕方ないってあなたはいつどんなときに気がついた?
青森に越してきました。みちのくのみなさま、 よろしくお願いいたします!まだまだ箱に囲まれて暮らしています。恐れ入りますが、ご発注いただいた詩集たちの発送やデザイン案件の連絡もうすこしお待ちくださいませ。七日目の夜より。
5月、さっそく出店の予定があります。よろしくおねがいします。あたらしい本作りたいな~!
第2回 本の市「はなかり市」
5月11日(土)10:00〜16:00
ねぶたの家ワ・ラッセ2階 多目的室2
入場無料