絶対的自信・自己肯定感・そして・・・

こんにちは
今日もお立ち寄りいただきありがとうございます

前回の仙人の話から引き続き
考えてしまうこと

いや、正確には
友人に言われた、
私のモチベーションの話に由来する思考なのですが

かつては
自己肯定感のかけらもなかった私
自分の存在意義について
これっぽっちも認められなかった時代

そして、それでもなんとか、
命のバトンを受け取ってしまった以上は
これを繋ぎ、最後まで生きなければいけないのだと悟り
生きながらえて
出逢った夫によって築かれた
幾ばくかの自己肯定感と自信

そう、育まれた、というより
寧ろ0から築き上げたそれは
今でも少しずつ膨らんで
日常生活では
かなり自己肯定できるし
生きてていい と思えるし
自信もある

なのに何故
この、自信の持てない
劣等感に引き戻される世界に
居続けようとするのか

何故
自信のある世界で勝負しないのか

少しだけ見えたその理由の断片を
ここに書いておこうと思う


絶対的自信が育ってくると
どうやら人は 人の話を聞かなくなるのではないかと思う
そして、自分と違う意見の人を認めなくなったり
攻撃したり
もっと大袈裟に言えば
自分の意見を信じるが故の戦争なのではないかと。。。。

しかし、多くの人格者は皆 謙虚さを持ち合わせていて
人の意見をよく聞く
そして理解に努める

そう言う姿を見たときに
ああ、素敵だな人格者だなと 私は思う


そこまで考えて気付いた

ああなるほど
私は自分の絶対的自信を打ち砕き
謙虚さを忘れないために
自信のない世界に挑み続けるのではないか と

自信のある世界に身を置き続けていると
恐らく私の場合
謙虚さを忘れてしまう

でも、自分が完璧でないことを
常に思い知らされる場に身を置いていれば
それを忘れることがない

いつでも謙虚な立場に戻れるのである

そのことに気付いたら
ああ、これでいいのだ
と なんだか思えた

出来ないこと、難しいことに
常にチャレンジし続けることは
私を私たらしめるのだ

いつでも自信を持っていられる場所があること
その上でどこにでもチャレンジしに行けること

こんなに素晴らしい環境に身を置けていることに感謝しつつ
子どもにもこういう環境をつくってあげたい
と改めて感じます

子どもに提供したいことは
実は自分に提供したいことだった
と気付いたのは
食について
本当は私が食べたいものしか与えていなかったと気付いたとき

この原理はつまり
食だけではなく
全てにおいて
言葉も環境も
自分に欲しいものを子どもに与えようとするのだということに気付いて
はっとする

時代は巡る

私が望むものと
子どもが望むものは必ずしも一致しない

私が提供したいことを受け入れてくれるかどうかは
子ども次第
子どもが望むものを提供できているかどうかも
また別の話

私が望むこと
子どもが望むこと
家族が望むこと
友人が望むこと
地域が望むこと
社会が望むこと



宇宙が望むこと

その果てに何があるのか

私はどこまで飛べるのか

そんなことを考えたのでありました

今日も散文にお付き合いいただき
ありがとうございます

素敵な午後をお過ごしください

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