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漱石の敵とはだれなのか:国家主義を標榜したやかましい会

 夏目漱石の 『私の個人主義』に気になることが書いてある。

 「昔し私が高等学校にいた時分、ある会を創設したものがありました。その名も主意も詳しい事は忘れてしまいましたが、何しろそれは国家主義を標榜したやかましい会でした。もちろん悪い会でも何でもありません。当時の校長の木下広次さんなどは大分肩 を入れていた様子でした。その会員はみんな胸にめだるを下げていました。私はめだるだけはご免蒙りましたが、それでも会員にはされたのです。無論発起人で ないから、ずいぶん異存もあったのですが、まあ入っても差支なかろうという主意から入会しました。ところがその発会式が広い講堂で行なわれた時に、何かの 機でしたろう、一人の会員が壇上に立って演説めいた事をやりました。ところが会員ではあったけれども私の意見には大分反対のところもあったので、私はその 前ずいぶんその会の主意を攻撃していたように記憶しています。しかるにいよいよ発会式となって、今申した男の演説を聴いてみると、全く私の説の反駁に過ぎ ないのです。故意だか偶然だか解りませんけれども勢い私はそれに対して答弁の必要が出て来ました。私は仕方なしに、その人のあとから演壇に上りました。当 時の私の態度なり行儀なりははなはだ見苦しいものだと思いますが、それでも簡潔に云う事だけは云って退けました。」(『私の個人主義』―大正三年十一月二 十五日学習院輔仁会において述―)という個所である。

 とくに、①「昔し私が高等学校にいた時分、ある会を創設したものがありました。―中略―何しろそれは国家主義を標榜したやかましい会でした。」、②「そ の発会式が広い講堂で行なわれた時に、―中略―一人の会員が壇上に立って演説めいた事をやりました。」、③「今申した男の演説を聴いてみると、全く私の説 の反駁に過ぎないのです。―中略―勢い私はそれに対して答弁の必要が出て来ました。私は仕方なしに、その人のあとから演壇に上りました。」という三カ所が 気になる。

 探偵小説的に読むと、この男が漱石の敵ということになりそうである。

 「国家主義を標榜したやかましい会」がどのようなものであったか確認することはできないが、漱石の親友正岡子規が一八八九年(明治二十二)ごろに「道徳会ともいふべきもの」があったと記している。それは江藤淳氏が『漱石とその時代 第一部』(一四二―三頁)で引用している「道徳の標準」という以下の文章である。

 「近頃我高等中学校に 道徳会ともいふべきものを起す人あり。余にもすすめられたれど、余は之に応ぜざりき。漱石も亦異説を唱へたり。其言に曰く、『余は今、道徳の標準なる者を 有せず、故に事物に就て善悪を定むること能はず。然るに今道徳会を立て道徳を矯正せんといふは、果して何を標準として是非を知るや。余が今日の挙動は其瞬 間の感情によりて定むる者なり。されば昨日の標準は今日の標準にあらず』と。余の説も略々これに同じ。今日善とする者果して善なるか。今日非とする者果し て非なるかを疑ふ者なり。」(明治二十二年の断片)と、子規は道徳会について述べている。漱石がいう「国家主義を標榜したやかましい会」と子規がいう「道徳会ともいふべきもの」が同じ会であったかどうかは定かではないが、この当時、国家主義的な道徳を鼓吹する会があったのは確かなようである。

 漱石が国家主義的な雰囲気に神経質になっていたのとは対照的に松井茂は「余等の一高時代は前記の如く上に木下名校長を戴き盛んに尚武の気風を涵養し、或 は端艇の練習に或は陸上競技に大いに活躍したものであつた。」と、「国家主義を標榜したやかましい会」に肩入れしていた木下広次校長に「尚武の気風を涵養 し」と、好感を持って国家主義的雰囲気を歓迎している。

 また松井茂は、一八八九年(明治二十二)頃を振り返って「高等中学校の予科第一級修業後は各自法科或は医科に入るのであるが、決別前級和会が出来て盛ん に興味ある会合を催した事があつた。今も忘れぬが余は独逸語で『ひとつとや節』を作つた。それは医に志す人は他日ピポクラテスのやうな大家となり、又法科に志す人は大臣となり弁護士と なる事も容易である。学窓生活は矢の如く過去つて吾等は軈て紳士となり又国士ともなり得るのである。然し父母の高恩は決して忘れてはならない。殊に又日本 に生まれたる以上は国粋保存の事に志すべきである。斯くて吾々同志が団欒の快楽を求むる時、会員たる者は、欠席することがあってはならぬ。茲に吾々の級和 会が設けられたのであるから、お互に声朗かに歌ほうではないか――斯ういう意味の歌で未定稿ではあるが、全く余の自作にかかるものである。」と、「日本に 生まれたる以上は国粋保存の事に志すべきである。」と主張して、決別前級和会のためにドイツ語の詩を作ったと述べている。

 さらに松井茂は、一九〇二年(明治三十五)七月二十九日に日本弘道会四谷支部会で「公徳と警察」と題して講演を行った際、その冒頭で「私は松井でござり ます、曾て此の四谷の公民の末席を汚して居りました、又学生時代より十数年来本会の末席を汚して居るやうな訳でござります」(『警察協会雑誌 第三〇号』明治三十五年十一月十三日)と述べている。松井茂は、一九〇二年(明治三十五)の十数年前から日本弘道会という国粋主義を主張する道徳の会に入会していたのである。一九〇二年(明治三十五)の十数年前は、ちょうど明治二十年代のはじめになる。

 松井茂が、漱石がいう「国家主義を標榜したやかましい会」の発起人であったかどうかは定かではない。

 だがもし、国家主義を標榜した会が発起されれば、松 井茂はどうしたであろうか。当時の行動から推理すれば、松井茂は諸手を挙げて国家主義を標榜した会に賛同していたにちがいないのである。

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