猫党と犬党:漱石の親友中村是公
漱石の敵がだれなのか推理するには、漱石の交友関係を知る必要がある。
学生時代の漱石には、親友の正岡子規、米山保三郎、中村是公(なかむら ぜこう:一八六七年―一九二七年、南満州鉄道株式会社総裁、鉄道院総裁、貴族院議員、東京市長)のほかにも多くの友人がいたようである。
なかでも、親友中村是公の存在は有名で、中村是公は正岡子規、米山保三郎が早世したのとは異なり、漱石の死まで親交があった。
漱石と中村是公は一八八四年(明治十七)九月に東京大学予備門予科に入学している。漱石は当時をふりかえって、「何とか彼んとかして予備門へ入るには入ったが、惰けて居るのは甚だ好きで少しも勉強なんかしなかった。水野錬太郎、今美術学校の校長をして居る正木直彦、芳賀矢一なども同じ級だったが、是等は皆な勉強家で、自ら僕等の怠け者の仲間とは違って居て、其間に懸隔があったから、更に近づいて交際す る様なこともなく全然離れて居ったので、彼方でも僕等の様な怠け者の連中は駄目な奴等だと軽蔑して居たろうと思うが、此方でも亦試験の点許り取りたがって 居る様な連中は共に談ずるに足らずと観じて、僕等は唯遊んで居るのを豪いことの如く思って怠けて居たものである。」(『落第』)「その頃は大勢で猿楽町の 末富屋という下宿に陣取っていた。この同勢は前後を通じると約十人近くあったが、みんな揃いも揃った馬鹿の腕白で、勉強を軽蔑するのが自己の天職であるか のごとくに心得ていた。」「稍ともすると、我々はポテンシャル・エナージーを養うんだと云って、むやみに牛肉を喰って端艇を漕いだ。」(『満韓ところどこ ろ』)「端艇競漕などは先ず好んで行った方であろう。前の中村是公氏などは、中々運動は上手の方で、何時もボートではチャンピオンになっていた位である が、私は好きでやったと云っても、チャンピオンなどには如何してもなれなかった。」(『私の経過した学生時代』)「明治二十年の頃だったと思う。同じ下宿 にごろごろしていた連中が七人ほど、江の島まで日着日帰りの遠足をやった事がある。」(『満韓ところどころ』)などと書いている。
漱石自身が親友と呼ぶだけあって、中村是公とは特別なエピソードがある。
「中村が端艇競争のチャンピヨンになって勝った時、学校から若干の金をくれ て」、「中村はその時おれは書物なんかいらないから、何でも貴様の好なものを買ってやると云った。そうしてアーノルドの論文と沙翁のハムレットを買ってく れた。」(『永日小品』)「月五円の月給で中村是公氏と共に私塾の教師をしながら予科の方へ通っていたことがある。」「塾の寄宿舎に入っていたから」「此の中から湯銭の少しも引き去れば、後の残分は大抵小遣いになったので、五円の金を貰うと、直ぐその残分丈けを中村是公氏の分と合せて置いて、一所に出歩いては、多く食う方へ費して了ったものである。」(『私の経過した学生時代』)と、中村是公と一緒にアルバイト先で共同生活したことなどを書いている。
ただ残念なことに漱石は、親友中村是公と一緒に遊んだことなどについてしか書いていないのだ。そのため漱石の作品からは、中村是公の思想的立場などについて知ることができない。
漱石の死後のことだが、中村是公の思想的立場の一端が垣間見えるエピソードがある。
それは一九二一年(大正十)三月十五日の貴族院分科会での水戸中学校長の菊池謙二郎の舌禍事件に関する質問である。
この質問で中村是公は菊池を擁護している。
水戸中学校長の菊池謙二郎の舌禍事件というのは「国民道徳と個人道徳」と題した菊池の講演の内容が危険思想として問題視された事件のことである。
舌禍事件を起した菊池謙二郎は、漱石が愛媛県 尋常中学へ赴任の際に赴任準備費約50円を借りたことで有名な友人で、漱石や中村是公と東京大学予備門予科で同級生であった。
また菊池謙二郎については、 漱石の菅虎雄宛書簡に「君ハ時々菊謙ト議論ヲスル相ダナ両方共強情ダカラ面白イダラウ」(明治三十六年七月三日付菅虎雄宛書簡)とあり、漱石と菊池謙二郎 が学生時代に議論したであろうことがうかがえる。
菊池謙二郎は先の講演で穂積八束(ほづみやつか:一八六〇-一九一二、君主絶対主義の立場にたつ憲法論を唱え、天皇主権を「国体」としてその絶対不変を 唱えた。法学者。穂積陳重の弟)、井上哲次郎、吉田熊次(井上哲次郎の女婿)の名を上げて、「五六年前より文部省に行わるる中等学校教員検定試験には何科 に拘らず国民道徳の一科だけは一律に真先に課して居るのでありますが検定試験委員たる二三博士の説にはどうも敬服することが出来ぬ。然らば彼等の国民道徳 は何であるかと云うに第一祖先崇拝、第二家族制度、第三忠孝一本、第四武士道が日本国民道徳の骨子なりと云うことになって居ります。処で国民道徳と云えば その国民に特有の道徳であって其国特有の思想感情を以て其の骨子要素とせなければならぬという彼等の解釈に基き、前記四者は果して日本に特有のものか。否 か私は大に疑惑を抱かざるを得ない。 若し果して特有でなければ彼等の説は論理上当然崩壞するわけである。」(菊池謙二郎「校正したる『国民道徳と個人道 徳』」『危険視せられし道徳論と辞職顛末』大正十年)と述べ、祖先崇拝、家族制度、忠孝一本、武士道が必ずしも日本特有のものでないと結論した。
中村是公は菊池謙二郎を擁護する際、先祖について「二三代以前のものならば、それは分かりもしやうが、殆ど分からないものも多数ある、自分にした所が、 先きの所は分らぬ」(これは明治三十九年四月十一日付三重吉宛書簡で漱石が「先祖代々の血統を吟味したら日本中に確たる家柄は一軒もなくなる」と述べたこ とに似ている)などと述べて祖先崇拝、家族制度、忠孝一本、武士道が必ずしも日本特有のものでないとして、菊池謙二郎の論は危険思想にあたらないとしてい る。
中村是公が菊池謙二郎を擁護したことから、中村是公も菊池謙二郎と同様に祖先崇拝、家族制度、忠孝一本、武士道が必ずしも日本特有のものでないと考え ていたと思われる。
興味深いことに、漱石の門弟であった和辻哲郎も菊池同様に穂積八束、井上哲次郎を批判している。
和辻哲郎は戦後『日本倫理思想史 下』で、国体概念を否定し、井上哲次郎による明治後期の国民道徳論を批判している。また、佐々木惣一博士との「国体変更」論争では「国体」という語の廃止 を主張した。この「国体」という語の廃止は、穂積八束の国体論の全否定にほかならない。
このように、漱石の親友中村是公は菊池謙二郎を擁護し、菊池や門弟和辻哲郎は、穂積八束、井上哲次郎を批判していたのである。
このことから推理すると、漱石が批判していた人々に穂積八束、井上哲次郎が含まれると思われる。
もしそうならば、漱石がいう「猫党」とは、穂積八束、井上哲次郎な どの国体論や国民道徳を批判する立場の人びとで、穂積八束、井上哲次郎の国体論や国民道徳に与する人びとが「犬党」といえる。