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漱石の暗い部分:心理分析の前に

 『吾輩は猫である』の未来予測を解釈する際、「探偵」に関する記述を真面目なものととらえず、諧謔と解することが、漱石の未来予測を理解するうえで影を落としているように思われる。

 漱石の門弟のひとりの和辻哲郎が『夏目先生の追憶』(一九一七年)で漱石の諧謔について「諧謔は先生の感情表現の方法として欠くべからざるものであった。先生の諧謔には常に意味深いものが隠されている。」「もともと先生の気質には諧謔的な傾向が(江戸ッ児らしく)存在していたかもしれない。しかし先生は諧謔をもってすべてを片づけようとする人ではなかった。諧謔の裏には絶えず厭世的な暗い中心の厳粛がひそんでいた。先生が単に好謔家として世間に通用しているのは、たまたま世間の不理解を現わすに過ぎないのである。」と述べている。

 和辻がいうように漱石の「諧謔には常に意味深いものが隠されている」のなら諧謔をただの冗談と決めつけてはいけない。

 和辻に「諧謔の裏には絶えず厭世的な暗い中心の厳粛がひそんでいた」といわれると、なにか漱石の心に闇が潜んでいるようで心理分析したくなる気持ちもわからないではないが、それでは漱石が批判したものは永久に見えない。

 むしろ「諧謔の裏には絶えず厭世的な暗い中心の厳粛がひそんでいた」は、和辻が漱石の諧謔は風刺(厭世文学)と解釈すべきだとヒントを与えてくれていると考えるべきだろう。

 また漱石が何と戦っていたか、つまり『吾輩は猫である』で何を風刺していたかを知ることなしに、『吾輩は猫である』前後の漱石の奇行の説明をしようとすれば、精神的に云々と言わざるを得なくなる。

 とくに注意しておかなければならないのは、たしかに漱石は胃弱だったようであるが、漱石の作品や手紙などを読むと、漱石が自ら誇張して神経衰弱と喧伝し、漱石自身が神経衰弱であるとの噂を流したふしがあるということである。

 漱石は鈴木三重吉宛の書簡で「現在状態が變化すれば此狂態もやめるかも知れぬ。」「氣違にも、君子にも、學者にも一日のうちに是より以上の變化もして見せる。」(明治三十九年十月二十六日鈴木三重吉宛書簡)などと述べており、「狂態」をやめようと思えばやめられたのである。

 漱石は、一九〇九年(明治四十二)の『それから』で「幸徳秋水の家の前と後に巡査が二三人宛昼夜張番をしてゐる。一時は天幕を張つて、其中から覗つてゐた。秋水が外出すると、巡査が後を付ける。万一見失ひでもしやうものなら非常な事件になる。今本郷に現はれた、今神田へ来たと、夫から夫へと電話が掛つて東京市中大騒ぎである。新宿警察署では秋水一人の為に月々百円使つてゐる。」と、幸徳秋水を探偵する巡査がそれからそれへと報知して、幸徳秋水の先回りをする様子を描写している。

 このことは、警視庁に特別高等警察が設置される以前にも同様の仕事をしていた警察官がいたことを暗示している。

 一九一〇年(明治四十三)の幸徳秋水事件、いわゆる大逆事件を契機に翌一九一一年(明治四十四)に警視庁に特別高等警察が設けられたが、漱石はそれ以前に警察官による探偵(思想取締り)を描写しているのである。

 さらに漱石は一九〇九年(明治四十二)の『永日小品』(一月から 三月に『朝日新聞』に掲載)でも、警視庁機密費について「捉まえると刑事の方が損になるものだそうだ。泥棒を電車に乗せると電車賃が損になる。裁判に出ると、弁当代が損になる。機密費は警視庁が半分取ってしまうのだそうだ。余りを各警察へ割りふるのだそうだ。」と記している。

 漱石は機密費が本来の目的以外で使用されていることを指摘しているのである。

 これは現在の用語でいえば「裏金」ということになり、個人的に着服していないとの前提で考えれば、予算化されていない経費にあてたということになる。先の幸徳秋水の探偵経費「月々百円」もそこから出ていたとの推理も可能だ。

 漱石の作品に出てくる探偵や巡査、警察に関する記述は、単なる諧謔ではなく、真面目な記述として読めば、痛烈な警察批判である。

 それは、帝国大学教員という官吏による公務員の不正の暴露とも解釈できる痛烈な警察批判だ。

 後述するように、現在でも日本では警察を批判することはタブーといわれている。このことをふまえて考えると、戦前の警察を批判するのは、まさに命がけである。警察を敵にまわすことの恐怖や孤独は一通りではないはずである。

 警察を批判したとなると、家族(子孫含む)に累が及びかねないと考えるのが正常な判断であろう。維新の志士ならば、家族に累が及ばないように妻子を里へ返すところだ。

 構成を重んじる作風の漱石が、私生活においても、家族に累が及ばないようにと、強度の神経衰弱と思わせるよう演出していたとしても、不思議ではない。

 警察を批判することの特殊性を評価することなしに、漱石の暗い部分といって、漱石の心理分析をすることにどのような意味があるのだろうか。

 探偵に関する記述を諧謔と決めつけて、詳しく調べようとしない評論家の態度は不自然である。

 探偵や警察に関する記述を諧謔と決めつけて、詳しく調べようとしない評論家の態度にこそ、暗い部分があるように思われる。

 けっきょく、評論家が指摘する漱石の暗い部分とは、無意識に警察をタブー視することが組み込まれた評論家自身の視覚(思考構造)の盲点に過ぎないのではないだろうか。

 なるほど『吾輩は猫である』の怪気炎は、思いつきで書いた文章にみえる。たしかに作中人物に語らせたエピソードにたまたま「探偵」が登場しているかのようである。

 だが、だからと言って、漱石の精神に原因を求めてしまうと、相良英明氏が『夏目漱石の探偵趣味』で指摘しているように、探偵について荒正人氏や吉田敦彦氏のように漱石の心理分析をしてしまうと、分析結果の原因が何であったかという問題に話しが進んで探偵に関する問題はそこで終わってしまうことになる。

 それでは構成を重んじると言われている漱石が精神的な原因で作品の肝心要の部分を思いつきで書いたということになってしまわないだろうか。

 和辻の「諧謔は先生の感情表現の方法として欠くべからざるものであった。先生の諧謔には常に意味深いものが隠されている」という言葉が事実なら諧謔にこそ、漱石文学の神髄があるはずである。

 そもそも漱石が思いつきで書いたと認めてしまえば、著名な評論家が認めている漱石が構成を重んじたということと、明らかに矛盾する。

 ショーペンハウアーが示した『ガリヴァー旅行記』読解の心得「物語の中の物質的なことがらをすべて精神的に解釈し直し」ではないが、漱石の残した物語(漱石に関する伝記的物語も含む)の中の諧謔的なことがらをすべて現実的に解釈し直して、漱石の作品を読む必要があるのではないだろうか。

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