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「公徳」:穂積陳重の「公徳教育に就て」、松井茂の「広義の警察教育」

 漱石は『吾輩は猫である』で「『……で公徳と云うものは大切な事で、あちらへ行って見ると、仏蘭西でも独逸でも英吉利でも、どこへ行っても、この公徳の 行われておらん国はない。またどんな下等な者でもこの公徳を重んぜぬ者はない。悲しいかな、我が日本に在っては、未だこの点において外国と拮抗する事が出来んのである。で公徳と申すと何か新しく外国から輸入し て来たように考える諸君もあるかも知れんが、そう思うのは大なる誤りで、昔人も夫子の道一以て之を貫く、忠恕のみ矣と云われた事がある。この恕と申すのが 取りも直さず公徳の出所である。私も人間であるから時には大きな声をして歌などうたって見たくなる事がある。しかし私が勉強し ている時に隣室のものなどが放歌するのを聴くと、どうしても書物の読めぬのが私の性分である。であるからして自分が唐詩選でも高声に吟じたら気分が晴々し てよかろうと思う時ですら、もし自分のように迷惑がる人が隣家に住んでおって、知らず知らずその人の邪魔をするような事があってはすまんと思うて、そう云 う時はいつでも控えるのである。こう云う訳だから諸君もなるべく公徳を守って、いやしくも人の妨害になると思う事は決してやってはならんのであ る。……』」(第八話)と書いている。

 漱石によれば公徳は「恕」つまり「おもいやり」がその源泉なのである。

 この文章の出だしの部分が、松井茂の恩師穂積陳重の講演内容と似ている。

 穂積は、一九〇〇年(明治三十三)「公徳教育に 就て」と題した講演で「欧米の市街では、馬車も多く通行人も多いが、下等な者でも、別に制せられなくても、交通上の規律は守る。一度警察規則で極れば、車 でも、人でも、皆互に右に除けるとか何とかするから、どんな雑沓した處でも、突當ることなど滅多にない。」と「下等な者」を引き合いに出して、公徳を説明 している。また穂積は「公徳に於ては、我邦は甚だ長じて居らないという結論を致しまして、この短所を補ふことは、教育の外に頼るべき道がない」と述べ、 「武家時代には武士道と云ふ公徳上の教えがあったが、憲法時代にも亦之に代るべき公徳教育が必要であることは勿論のことである。」と、新たな公徳教育の必 要性を訴えた。

 この公徳教育は、後に穂積自身が「公徳教育に関する事について聊か卑見を述べましたが、其事柄について、其後大に社会の注意を惹起し」(「経済教育と教育経済」『日本之小学教師』明治三十八年一月)と述べており、一九〇〇年(明治三十三)の穂積の講演「公徳教育に就て」が、公徳教育の契機となったと思われる。

 穂積と申し合わせたかのように一九〇〇年(明治三十三)頃から松井茂も、貧民研究会(「庚子会」)や警察協会(一九〇〇年設立。穂積陳重、穂積八束等を 名誉会員とし、内務大臣西郷従道を総裁、警視総監大浦兼武を会長、警保局長安楽兼道を委員長、内務書記官有松英義・警視松井茂を幹事、全国警察官を会員と する団体)の設立に携わったり、動物虐待防止を奨励したりするなど、公徳教育に取り組み始めている。

 一九〇〇年前後に社会教化事業が盛んになるが、この年 は干支でいえば庚子(かのえね・こうし)にあたる。

 つまり「猫」の敵、「鼠」なのである。

 社会教化事業に力を入れていた松井茂は、公徳教育を「広義の警察教育」とも呼び、一九〇二年(明治三十五)から一九〇三年(明治三十六)にかけて、「公徳と警察」「警察と公徳との関係に就て」「警察と教育との関係」などの公徳教育に関する講演を行っている。

 後に、広義の警察教育は「社会教化」と呼ばれ、 狭義の警察教育は「警察教養」と呼ばれるようになるが、現在これらの語(「教化」や「教養」)は、朝鮮民主主義人民共和国や中華人民共和国で「労働教養」 「教化所」「労働教養施設」などという語に使われているだけで、日本での用例は少ない。

 「公徳と警察」(明治三十五)では「公徳と云ふものは個人の行為又は不行為が公衆に便益を与へるものである」と公徳を定義し、「警察と公徳との関係に就 て」(明治三十六)では「公徳の養成は主として慣習の力であろうと思ひます、此慣習と申すものは良慣習も、悪慣習もございます、其処で此慣習を作り出すの は何か活動力がなければならぬ、此に於て善良なる慣習に属する公徳を作り出すにも其活動力とも称すべき中心力と云ふ者があらうと思ひます」と、善良な慣習 つまり公徳を作り出すことを唱えた。そして、「公徳の慣習を養成する上に於て大に与りて力ある者は第一には階級の何れにある者たるを問はず苟くも勢力ある 者、第二には教育家、第三には新聞紙、第四には公共団体、第五には社会倶楽部等の団体、第六には警察官以上六種の者にして公徳の率先者と為るときは偉大の 効力があることと存じます」と、公徳の養成方法も示した。

 このように公徳教育という社会教化事業に熱心に取り組んでいた松井茂だが、意外なことに、大学時 代は公徳をわきまえない、ちょっと迷惑な学生だったようである。

 松井茂は大学時代を振り返って「余は大学寄宿舎に於ては入口辺の部屋に居つたが、盛んに藤 田東湖の『天地正大気』の長句を吟じたものであつたが、―中略―さて自分の室には壁間に東湖の掛物を掲げて東湖先生に親炙すると共に、一面盛んに山陽の名 詩(衣は骭に至りとか、鞭声粛々とか)を怒鳴つて剣舞をやつたもので、遂に余等の室は『鹿鳴館』と綽名されたのである。其の意蓋し鹿鳴館は外交舞台に於て 舞踏を演じた所謂文化的産物であるが、余等のはむしろ蛮勇的鹿鳴館であつた。」と回想している。

 松井茂は周囲の迷惑も考えず大学寄宿舎で大きな声で歌って いたのである。

 以上のように「公徳」は、松井茂の恩師穂積陳重が提唱し、松井茂自身も公徳教育という社会教化事業を熱心に行ったのであった。

 このことをふまえて冒頭の 『吾輩は猫である』の引用個所を読めば、前半が、「恕と申すのが取りも直さず公徳の出所である」と、「恕」つまり「おもいやり」が公徳の源泉であるという 公徳教育の説明、後半が公徳教育を熱心に行った松井茂の学生時代の公徳(漱石のいう「恕」)の欠けた生活ぶりを暗示しており、引用した文章が公徳教育と松 井茂との風刺になっていることがわかる。公徳の源泉は「仁」でも「仁恕」でもよさそうなものであるが諷刺と見れば「忠恕」とした方が効果的である。

 後に明らかになるが、松井茂が展開した公徳教育(広義の警察教育)から国民皆警察に至る社会教化事業は「忠」を源泉としており、漱石がいう公徳の源泉となる「恕」(道義的同情)が欠けているのである。漱石は、そのことを批判したものと思われる。

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