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【おそ松さん考察】おそ松さん3期とはなんだったのか?~「ノリ・フリ」をめぐって~
【はじめに】
おそ松さんに再熱しました。
きっかけは、長編「魂のたこ焼きパーティと伝説のお泊まり会」。
おなじみの仲間たちが長机を囲む和気あいあいとした雰囲気が、親戚の集まりのようで、なごやかな気持ちになりました。
おそ松さんは、1期の放映当時どころか、ティザーPVから見ていて、伝説の1話もリアタイしました。生き証人と呼んでほしい(は?)。
2期、3期もリアルタイムで見ていました。
しかし、放映終了以降はご無沙汰でした。
それは、3期を「イマイチ」だと感じたからです。
1話完結が好きだったので、オムスビという続き物の要素に興ざめ。
途中からは、流し見程度だったように記憶しています。
(カラ松好きにもかかわらず「ピザ」を全く覚えていませんでした)
ですが今回、改めて1期から3期までを見通してみて、印象が大きく変化しました。
すこし、書いてみようと思います。
【本稿について】
本稿では、主に以下の点に注目したいと思っています。
・1期、2期では、どのようなことが描かれてきたのか。
・2期に頻繁に登場した「ちゃんと」という単語は、何だったのか。
・「1期、2期」と「3期」で、六つ子にどのような変化があったのか。
・その変化は、3期で登場した「オムスビ」に、どんな影響を与えたのか。
です。
本稿は、読者がテレビシリーズの1期から3期を視聴していることを前提としています。
また、「えいがのおそ松さん」にも、少しだけ言及します(「ヒピポ」「たこ焼き」の話はしませんが、面白いので見てください)。
【「ちゃんと」すること】
筆者は、1期・2期と3期では、六つ子のアイデンテティの在り方に違いがあると考えています。
正確には、2期25話「地獄のおそ松さん」をきっかけに、彼らの中で、価値観の転倒が起こったのです。
それを考えていくために、まず、「おそ松さん」1期・2期が、どんなテーマで描かれてきたのかを考えてみます。
1期は、まず、視聴者に向けて、六つ子の特徴を描くこと。
六つ子のパーソナリティや関係性を描き、視聴者に覚えてもらうことです。
なにせよ、全員同じ顔ですからね。
(筆者は未だに、暗闇のシーンなんかだと、おそ松とトド松を一瞬見間違えます)
並行して、彼らの「無職童貞から抜け出したい」という欲望と、そうできない葛藤が描かれていきました。
それでは、2期はどうでしょうか。
筆者は「自己受容」の意味があったと考えています。
2期の象徴的な言葉として「ちゃんと」という言葉があります。
これが、それはそれは、しつこいくらい出てくる。
まずは、2期1話「ふっかつ おそ松さん」です。
この話の後半では、六つ子が万人から愛されるアニメになるために、それぞれが考える「ちゃんと」を実現させます。
十四松はCGとして登場し(2015年~2020年まで、「STAND BY ME ドラえもん」「ドラゴンクエスト・ユア・ストーリー」などの3DCG映画がブームでした)、実写化ブームを汲んだトド松は、人間の姿として現れます(おじさんがお面を被っているだけですが……)。
この「ちゃんと」は、他の話や曲にも頻繁に登場します。
・「ちゃんとしないと!」(1クール目エンディングテーマ「レッツゴー! ムッツゴー!」チョロ松)
・「ちゃんと合体!」(1話「ふっかつ! おそ松さん」)
・「どうかな、俺、ちゃんとおそ松でいれてる?」(24話「桜」おそ松)
このことから、「ちゃんと」が、2期のテーマだったと言えるでしょう。
では、「ちゃんと」とは何なのでしょうか?
【なぜ童貞がコンプレックスなのか】
「ちゃんと」について考える前に、『ウチ』『ソト』という言葉について書いておきましょう。
柳田国男は「日本人には特殊な内と外の観念が発達している」と述べています。
日本は稲作が盛んだったため、指導者を必要とする群れ『ウチ』と、それ以外の集落『ソト』というものが形成されていきました。
そこから転じてか、広辞苑において『ウチ』は「自分の属する側(のもの)」『ソト』はその反対だと定義されています。
柳田は『ソト』とは、自分たちの集落の外側にいる「同情の無い批判者」のことだと述べています。
このことを踏まえて、2期について深く考えていきます。
2期までの六つ子にとっての『ウチ』『ソト』は、それぞれ何を指すのでしょうか?
筆者は『ウチ』は『六つ子』、『ソト』は、無職童貞や彼らの人となりを責める「同情のない批判者」のことだと考えました。
六つ子にとっての「ちゃんとする」とは、六つ子という『ウチ』にこもっている自分たちが、無職童貞という立場を克服し、「同情のない批判者」に受け入れられること、です。
この「同情のない批判者」という『ソト』は、「世間」と言い換えてもいいでしょう。
「世間」とは、地位や法律などで善悪が決まる「社会」ではなく、人々の空気から形成される見えない流れのようなもの。
六つ子はニートなので、確かに、社会的地位は低いかもしれません。
ですが、童貞だからと言って、檻にぶち込まれて、拇印を迫られることはありません。
彼らが童貞にコンプレックスを抱くのは、「二十歳超えて童貞は恥ずかしい」という「人々の空気から形成される見えない流れ」によるものです。
1期は「世間」に受け入れられたいが、そうできない葛藤。
2期は、「世間」に受け入れられる(=「ちゃんと」する)ために、自分たちはどうするべきか?
ということが、描かれてきたと言えるでしょう。
【「おそ松さん」における地獄】
六つ子たちは、1期で「世間に受け入れられたい」けれど、そうできないこと。
2期では、「世間に受け入れられるために、自分たちはどうするべきか?」ということを考えてきました。
では、その結果はどうだったのでしょうか。
2期が終わる頃、彼らは「ちゃんと」成功したのでしょうか。
最終回の直前、2期24話「桜」では、病で倒れた松造の為に、おのおのが働き始め、「世間」に「ちゃんと」受け入れられるようになる様子が描かれます。
しかし、25話「地獄のおそ松さん」では一転。イヤミの乗った飛行機が家に墜落し、6人は死亡。地獄へ落とされてしまいます。
筆者は、この「地獄」に注目しました。
地獄には、「F6」「曹操」「マイコ松」といったキャラクターたちが、六つ子と同じ「白装束」「三角巾」の姿で登場します。
彼らも六つ子と同様、死んで地獄に落ちているというわけです。
この「死」というのは、肉体的な死のことではありません。
六つ子は作品中で頻繁に死にます(3期8話「高尾山」など)。
ですが、次の週には、しれっと生き返っています。
地獄に落ちる描写は、この「地獄のおそ松さん」が初めてです。
「地獄のおそ松さん」で描かれたのは、彼らの肉体的死ではなく、アニメキャラクターとしての死ではないでしょうか。
先に挙げたキャラクターたちの共通点は、1話限りのゲストキャラクターであること。要するに「用済み」。アニメキャラとしての存在意義が無くなったと言えます。
「おそ松さん」における「死」は『おそ松さん』というアニメのキャラクターとしての役割を終えることなのです。
「桜」で、おそ松に宝探しを断られたイヤミが悪態をついた理由は、3期25話「ひま」で明らかになります。
チミ、ギャグキャラの魂はどこに行ったザンスか?
それでも昭和生まれ? アカツカキャラ?(中略)
作品の名を背負いながら、チミはもうアカツカの矜持を捨て去ったという認識でよろしゅうごザンスね?
「桜」でイヤミが怒ったのは、おそ松たちが「『おそ松さん』というアニメのキャラクターとしての役割」を放棄したからだ、と言えるでしょう。
六つ子は、世間に認められた(「ちゃんと」した)ことで『おそ松さん』のキャラクターとしての役割を果たせなくなり、死んだ」と解釈できます。
つまり、「ちゃんと」することと「『おそ松さん』のキャラクターである」ことは両立できないのです。
「ちゃんと」すると、彼らは死んでしまうから。
逆に言うと、「ちゃんと」していない自分たちにこそ、価値がある。
6人は「地獄」に落とされて初めて、それに気づいたのではないでしょうか。
1期では、世間が求める「ちゃんと」をこなせないことに対するコンプレックスが描かれました。
しかし、2期、こと「地獄のおそ松さん」を通して、そんな自分たちを『これでいいのだ』と受容できるようになったのです。
自己受容の象徴として、3期の終盤では、自立への葛藤は描かれません。
1期2期の最終回前話である「手紙」「桜」は、共に彼らが就職し、「ちゃんと」する姿が描かれました。
対して3期は「帰ってきたおそ松」「A-1グランプリ」。最終回「ひま」は、彼らのとりとめのない日常を描いた話です。
3期において、彼らが将来を憂う話としては、5話「帰り道」があります。
しかし、そこで語られる「結婚」は、「そのうちするんじゃない?」という夢想に過ぎず、いじきたない葛藤が無いのです。
このように、3期における彼らは、「自立しよう」「ちゃんとしよう」ではなく、「ちゃんと」しない自分たちを受け入れているのです。
「様々な仕事をする六つ子」が「コスプレ松」と題されているのも、自立や就職などで「ちゃんと」することを辞めたゆえの題名ではないでしょうか。
「仕事をする」ということ自体が、3期の彼らにとっては「コスプレ」なのです。
「あんな六つ子でも、成長している」のです(失礼)。
【「ちゃんと」しない3期】
「地獄のおそ松さん」で、「ちゃんと」しない自分たちにこそ価値があると気づいた六つ子。
3期では、どのような変化が描かれたのでしょうか。
筆者は2期25話を境に、『ウチ』『ソト』の転倒が生じたと考えています。
2期まで『ウチ』は六つ子、『ソト』は世間に当てはまることは、先に述べたとおりです。
それが3期では、「六つ子」を『ソト』とする新しい「群れ」を形成するように変化したのではないか、というのが筆者の見立てです。
六つ子は言うまでもなく『松野家』という『家』に暮らしています。
社会学において、『家』という字には、『ヤ』『イエ』という二つの呼び方があり、それぞれ違う意味を持っています。
『ヤ』は「雨露をしのぐための屋根」がある、いわゆる建築物としての『家』。
対して『イエ』は、「ひとつの群れ」であり、「個々が独立した生計を持たない」「花びらのように中心を持った集合体」だとされています。
六つ子たちは、六枚の「花びら」を持つ「群れ」である、といえるでしょう。
六つ子と両親では、生計こそ「独立した生計を持」っていても、別の「群れ」を形成しているように思います。
食卓のシーンを見ていても、六つ子と彼らの両親では、食事をとる場所が分けられています(六つ子は居間、両親は台所。ちなみにアニメ「おそ松くん」第一話では、松造も居間で食事をとっています)。
リチャード・H・モリタは、「家族とは社会の最小の単位だ」と述べています。
3期での六つ子は、「家族(六つ子)」という最小単位の社会を、自分たちの『ソト』とするようになったのではないでしょうか。
つまり『ソト』と定義する範囲を、世間から『イエ』の中へと狭めたのです。
3期の彼らにとって、世間からの評価や、「ちゃんと」就職することはどうでもよいこと。
それよりも、六つ子という「群れ」の中でどう立ち回るのか、ということに焦点が置かれているのです。
それゆえ、3期では彼らの新しい側面が描かれます。
「キャラブレ」ともいえるその現象は、彼らのアイデンテティの変化を表してはいないでしょうか。
顕著なのが、一松・十四松・チョロ松です。
一松は、兄弟に隠れてラジオをする(3期4話「一松ラジオ」)ような、カラ松に共通する「ナルシスト」。
十四松は兄弟の恋路を冷静に見られるような「常識人」(3期5話「まぁな」)。
チョロ松は、庭に自身の記念館をおっ建てるという「明るい狂人」(3期21話「チョロ松記念館)へ。
これは、今まで世間という『ソト』に対して最適化されていたペルソナが剥がれ、六つ子という新しい『ソト』における性格が描写され始めたということではないでしょうか。
それでは、六つ子を『ソト』とした時の、『ウチ』とは何なのか。
筆者は、コンビやトリオなど、六つ子をさらに分解した細かい「群れ」だと考えています。
この『ウチ』『ソト』の変化について、3期15話『キラキラ・ファントム・ストリーム』と、1期19話『チョロ松ライジング』を見比べたいと思います。
これは、オムスビへの「劣等感をこじらせたチョロ松」が、十四松と共に、キラキラする(打ち込める)ものを見つけようとする。
しかし、最終的に「カラ松を加えた三人で、金魚鉢を眺める」という「奇行」に走るというストーリーです。
一方『チョロ松ライジング』では、「劣等感(自意識)をこじらせたチョロ松」が、「喫茶店で段ボールのパソコンとスマホで作業をしている振りをする」という「奇行」で終わります。
両者を比較すると、『チョロ松ライジング』での「奇行」はチョロ松という「個人」が、喫茶店という「世間」の中で行っているのに対して、『キラキラ・ファントム・ストリーム』では、チョロ松、十四松、カラ松が「六つ子」の中で「奇行」に走っている、という違いがあることが分かります。
これは、3期では「ソト」の範囲が、世間から六つ子の内部まで狭まったということの証拠ではないでしょうか。
余談ですが、チョロ松・カラ松・十四松は、1期4話「自立しよう」で、扶養(松野家と同一の生計を持たない)を迫られた三人です(ファンからは「保留組」と呼ばれています。
『キラキラ・ファントム・ストリーム』は、家から追い出され、世間という『ソト』に出るかもしれなかった三人が、新しい『ソト』となった六つ子という世間の中で、独自の『ウチ』に引きこもる話なのです。
また、『キラキラ・ファントム・ストリーム』でチョロ松が挑戦したのは「DIY」「ソロキャンプ」という世間で流行っているものでした。
しかし、最終的には六つ子という『ウチ』でのケンカ、そして、決して鉢の「ソト」へ出ることがない「金魚」を眺めることにたどり着いたことも、触れておきましょう。
六つ子は、「地獄のおそ松さん」を境に、世間に対して「ちゃんと」しない自分たちを受容できるように変化しました。
そして彼らは『ソト』の範囲を世間から「六つ子」に狭め、その社会の中で、おのおのの『ウチ』を形成するようになりました。
それでは、その「変化」は、3期からの新キャラクター「オムスビ」に、どのような影響を与えたのでしょうか?
【オムスビと六つ子】
オムスビと六つ子の関係性に触れる前に、3期のテーマについて考えてみましょう。
一言で表すなら、筆者は、「ノリ・フリ」だと考えています。
「おそ松さん」はドリフを代表とする昭和のコント番組に連なる、(ほぼ)一話完結のコメディアニメです。
「お笑い」とは「ノリ」や「フリ」など、周りの空気を読むことが笑いに繋がります。
本稿での「ノリ」は「その場の空気」、「フリ」は「その空気の中で行われるある決まった行動」と定義したいと思います。
例えば、ダチョウ倶楽部のギャグ「オレも」「オレも」「オレも」「どうぞどうぞ」は、「自分の役割を誰かにおしつけたい」という空気(「ノリ」)を全員が共有し、それに対して全員が名乗りを上げることにより、最後に挙手した人物に「どうぞ」と譲るための「フリ」です。
その象徴として、3期11話「ピザ」では、空気が読めない十四松と、あえて空気を読まないカラ松が描かれます。
「ぼく、中華が食べたい!」(十四松)
「お前話聞いてた?『フリ』があっただろ」(一松)
(中略)
「ぼく、選ぶから。ちゃんと『フリ』通りに選ぶから! このピザとこのピザにする!」(十四松)
「そこは中華だろ!」(一松、チョロ松、トド松)
「選んで何になるんだよ、面倒くせぇなぁ。(中略)むしろオレを外してくれよ、クソつまんねぇ『ノリ』からはよぉ」
また、「ナンマイダー来襲」では、イヤミが偶然拾ったサングラスをかけると「従え」「目立つな」などの隠されたメッセージが出てきます。
人間の中に「ナンマイダー」という宇宙人が紛れており、知らないうちに人間の行動を誘導している、というストーリーです。
この「メッセージ」と「ナンマイダー」について、りん氏は以下のように語っています。
市中にあふれる謎のメッセージは、一方的で欲望を刺激するようなものばかり……。受け手は意識しないところで命令され従ってしまう。(中略)有名人がいいと言っているから、誰かの評価が満点だったから、だからいい事だろうという短絡的思考
日本人的な「ノリ・フリ」は、人間関係を円滑に進める上で必要不可欠なものではありますが、短絡的に従うと、自らの思考力を奪われてしまいます。
現に、「ピザ」のように「ノリ・フリ」を重視する六つ子は、ナンマイダーにすり替えられてしまいました。
この「ノリ・フリ」が招く「短絡的思考」を解体するのが、オムスビなのです。
【「ちゃんと」してないオムスビ】
12話「AI」以前(ニートAI形成前)のオムスビは、言葉を額面通りに受け取ってしまいます。
「僕たちが、皆さんに『何をすればいいですか?』と聞いたら、みなさんは『何もしなくていい』と答えられました」(ウメ)
「僕たちにできることはありません。つまり、無意味ですので」(シャケ)
「あ、あれは、そういう意味で言ってないよ」(一松)
「じゃぁ、どういう意味ですか?」(ウメ・シャケ)
彼らの思想は、東浩紀が唱えた「超平面的」にみえます。
ホームページを作成する時に使う「HTML」は、改行したい時は〈br〉と入力したりと、それぞれのコマンドが論理的に対応しています。
これと同じように、「各要素の論理的な関係」を見ている彼らは、「ノリ・フリ」のような、非論理的で「見えない」空気が理解できないのです。
最たる例が「シェー」でしょう。
「シェー」は、「(嬉しい、悲しいなどあらゆる感情を含んで)驚いたこと」という曖昧な意味を持ち、かつ「ノリ」を読んで発さなければならなりません。
3期11話まで、オムスビは「シェー」の意味やタイミングを模索します(「シェー」「やれよ」など)。
さらに、オムスビは人の気持ちにも疎い。
後に登場した助六が、六つ子の「オムスビに会いたい」という意図を察知し、先回りして手配をしたのに対し、オムスビは常に「何をしてほしいですか」と問いかけます。
2期で「ちゃんと」しないことの価値に気づいた六つ子たちの望みは、「だらだらしたい」ですが、言葉にされていない意図を読むことができないのです。
筆者は、これをアスペルガー的だと感じました。
アスペルガーは発達障害の一種ですが、彼らもまた「言葉の真意を読み解くことが難しく」「空気が読めない」人たちだと言われています。
彼らは、六つ子と同じように、「世間」に入っていくことが難しい人たちです。
あくまで、本稿の言葉に当てはめるとしたら、、「ちゃんと」していない特性だと言えます。
アスペルガー的なオムスビも、六つ子同様、「ちゃんと」していないAIだと言えます。
【「ちゃんと」してない六つ子】
オムスビをアスペルガー的だとするなら、六つ子はADHD的な「ちゃんと」してなさがあると言えないでしょうか。
ADHDは「不注意(うっかり)」などの特性を持つ障害です。
例えば、「家事をしよう」の「ロンTが上手く畳めないトド松」は協調性運動障害、「買った物を詰められないおそ松」は視覚認識能力の脆弱性とつなげることもできるでしょう。
しかし、ここで大切なのは「彼らが発達障害である」と言っている訳では決してない、ということです。
発達障害というのは、日常生活が困難な場合に診断が降りるものであって、いち特性……得意、不得意に過ぎません。
また、発達特性はスペクトル的であり、こういった特性はだれにでも少なからずあるのです。
あるあるネタだからこそ、「家事をやろう」は面白いのです。
そもそも、キャラクターに病気や障害の名前をあてたところで、何も明らかにはなりません。見るべきなのは、作品の中で何が描かれてきたか、です。
筆者が言いたいのは、彼らのこういった「ズレ」が、笑いのエッセンスになっている、ということです。
綿樽剛氏は、ADHDのミスについてこう語っています。
分かりやすい感じで言いますと、チャップリンの「モダンタイムス」のイメージです。(中略)ほんと、コメディかということを繰り返します。
チャップリンがそうであるように、笑いは、普通からのズレ、落差から生まれるものです。
古典の世界にも「伊勢物語」と「仁勢物語」、「草枕」と「犬枕」というようなパロディがあります。
これらは「高尚な文学作品を自分のところまで引きずり下ろす」という落差に笑いが生じています。
「おそ松さん」内で例えるなら、「マジック天使マジカルイッチー」の主題歌を、「プリキュア」シリーズで主題歌をつとめた五條真由美氏が歌っていることの面白さ、でしょうか。
彼らの「ちゃんと」できなさには、ADHD的な「コメディ」的な要素、普通からの「ズレ」があると言えます。
オムスビと六つ子には、それぞれ異なる「ちゃんと」していない性質があることがわかりました。
この、二つの性質を繋げたのが、一松です。
次項では、3期1クールにおける一松の役割について見ていきたいと思います。
【「ちゃんと」してない をつなぐ一松】
一松は、六つ子の中で最も「ノリ・フリ」に敏感な性格です。
「ノリ・フリ」を理解できないオムスビとは対極にあるキャラクターと言えるでしょう。
高校時代は明るいキャラをつくり、六つ子の中では「闇松」を自称してきた彼は、本来兄弟思いで真面目な性格です。
「友達なんてマジいらねぇ。だってぼくにはみんながいるから」
「てか、一松兄さんこそそろそろそのキャラやめたら?(中略)本当はごく普通の人間でしょ? エスパーニャンコの時証明されましたよね? ホントは闇ゼロ! ノーマル四男!」
人一倍「ノリ」を読み、「ノリ・フリ」に合わせることに長けた彼にとって、「ノリ・フリ」を理解しないオムスビは、対極の存在。
自分の価値観を破壊しようとする存在なのです。
自分の価値観が否定される時、人は少なからず傷つきます。
自分が傷ついてしまわないように、一松はオムスビを避けるのです(3期3話「評価値」ほか)。
しかし、一松も彼らを理解しようとつとめていたように思えます。
その象徴が折り紙です。
3期では度々、彼が折り紙を折るシーンが挿入されます(例えば、3期2話「お届け物」では「ツル」)。
1期、2期では全く見られなかった描写に、首を傾げたファンもいたことでしょう。
折り紙とは、「ノリ・フリ」と言った見えないものではなく、「見える」プロセスを踏んでつくるものです。
本屋へ行けば、折り紙の折り方を記した本がたくさんあることでしょう。
折り紙を折る過程は、「見える」もの、言葉の額面のみを読み取るオムスビの思考と類似しているように思えます。
不器用な彼なりに、折り紙によって、彼らを理解しようとしていたのです。
だからこそ一松は、12話「AI」でオムスビが解体作業に戻ろうとした時、真っ先に呼び止めたのではないでしょうか。
「じゃぁ、何だよ。役にたたないと一緒にいちゃいけないの? 無意味なやつには居場所ねぇのかよ。そんなの言ったら、おれたちみたいなやつも意味ねぇよ。すっげぇ無駄だよ。でも……」
オムスビも、六つ子も「無駄」で不必要なのか。
「ちゃんと」していない自分たちは必要なのか?
それを、チョロ松が「それでもよくないかな?」と肯定し、オムスビを諭します。
2期で「ちゃんと」しない自分たちを受け入れられたからこそ、オムスビの存在も肯定することができたのではないでしょうか。
ここで「それでもよくないかな?」と言うのが、2期までの間、兄弟の中で一番「ちゃんと」しようとしていたチョロ松というのも感慨深くなります。
あんな六つ子でも、成長するんですね……(2回目)。
また、おそ松の台詞にも、彼らの変化があらわれているように思います。
俺たちが聞きたいのは、オムスビ。お前らがどうしたいかってこと!
俺、自分のことは自分で決めたい
2期で導き出した「自分のことは自分で決めたい」という結論を、今度はオムスビに問いかけるのです。
オムスビ・六つ子と同じように、お笑いも、効率化を求める現代にとっては「すっげぇ無駄」なものかもしれません。
お笑いを見ている時間は、生命維持には必要ないからです。
しかし、それでいいのです。
あったら、少しだけ楽しいし、あってはいけない、ということではない。
3期1話「降板」の冒頭では、「コンプライアンス」に配慮し、様々なジェンダーや国籍の「ニュー六つ子」が登場しました。
六つ子からオムスビへの肯定は、そうではないもの……自分たちの存在を肯定することであり、同時に「お笑い」「ギャグ」「ニート」といった、すべての「すっげぇ無駄」なものへの肯定でもあるのです。
【六つ子がオムスビに望んだこと】
先に挙げたように、六つ子がオムスビに望んだのは「何もしなくていい」ことでした。
一松の返答通り、それは額面通りの意味ではありません。
「何もしなくていい」は「ただそこにいるだけでいい」という「存在の肯定」です。
六つ子がオムスビに求めたのは、「ノリ・フリ」を共有できる友人になることでした。
「なぁ、お前らゆっくりしていけよ。俺たちもう家族みたいなもんだよぉ」
「ブラザー! 今日は競馬に行こうか!」
六つ子の役にたてないと存在意義がない、というオムスビに対して、六つ子は「別にそんなこと思ってない(トド松)」、「気負っている(カラ松)」と彼らを案じます。
彼らにとって、オムスビはとっくに友人の一人。
「評価値」でカラ松、チョロ松、トド松が、オムスビにチビ太たちを紹介していたことからもうかがえます。
しかし、オムスビにはそれが分からず、「降板」することで最適化を測りました。
六つ子との交流を通し、オムスビたちは、「ニートAI」というアルゴリズムを形成します。
これは、「ノリ・フリ」を理解し、自分たちが「ちゃんと」していないことを受け入れた、ということではないでしょうか。
HTML的な超平面的思考から脱した彼らを見たがゆえに、助六は「シンギュラリティ」と涙を流したのです。
【最下位経ての真のAI】
「ノリ・フリ」を理解できなかった彼らが、「ノリ・フリ」を重視し、世間からの「ズレ」を笑いに変えていく漫才師を目指すようになったのは、彼らの成長として美しいかたちだと感じました。
彼らが「A-1グランプリ2020」の決勝戦で披露した「イタリアンに行く」というネタは、「M-1グランプリ2020」の優勝コンビ「マヂカルラブリー」が披露したネタのパロディだと思われます(フレンチレストランに行く、という内容です)。
彼らが「M-1グランプリ2017」の決勝で「つり革」というネタを披露し、審査員の上沼恵美子氏に酷評されたことは有名なエピソードです。
お笑いの大御所である上沼から、お笑いとして「ちゃんと」していないことを指摘されたマヂカルラブリーは、3年後、優勝に返り咲きました。
syudou氏の楽曲「爆笑」では、彼らを「最下位経ての真の王者」と称しています。
「ノリ・フリ」を理解し、『おそ松さん』のキャラクターとして「ちゃんと」自分を受容できるようになったオムスビもまた、『最下位経ての真のAI』です。
先に、「A-1グランプリ」に「(六つ子の)自立への葛藤は描かれません」と書きましたが、オムスビにとっての自立の集大成として、「A-1グランプリ」はあるのではないでしょうか。
【最後に】
これまで、3期の六つ子が「ちゃんと」しないことを受容し、それによってオムスビもまた「ちゃんと」しないことを受け入れた、ということについて述べました。
筆者はこれを考えてから、オムスビのことが大好きになりました(3期放映後の期間で、Mー1にハマったこともありますが……)。
4期での彼ら、そしてもちろん、六つ子たちの活躍が、待たれるばかりです。
そもそも4期が来い。
【参考文献】
「変貌する家族」シリーズ 岩波書店
「世間とは何か」 阿部謹也 講談社現代新書
「動物化するポストモダン」 東浩紀 同上