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多面体としての私、球として振る舞う違和感にようやく気づく

自分の中で、2021年が終わろうとしている。
というのも、手帳を見返していて、こんなメモが出てきたから。

・東京装画賞
・UNKNOWN/ASIA
・イタリア研修旅行、プロジェッタツィオーネ
・マチオモイ

…と、書いてある。
正月に、今年の抱負としてチャレンジしたいことを挙げたものだ。

プロジェッタツィオーネとは、毎度お世話になっているメビック(大阪市のクリエイター支援機構)で企画している研修旅行で、二度ほどこの報告会に話を聞きにいってるんだけど、もう本当、参加した人の目の輝きが違うというか。

私もいつかは…と思いつつ、まだ一人前になれてないし(出た!『私には資格がない』の呪い)とか、子どもも小さいし…としゅん巡しているうちに、コロナで状況は一変してしまった。
チャンスの神様は前髪しか無いって本当だな!

しばらくイタリアには行けないだろうが、私は軽井沢の森で、自分の本質を掴めそうな予感と出会い、そこからずっと心の旅を続けている。
良いじゃないか。

UNKNOWN/ASIA(アンノウンアジア)にも、2年ぶりに挑戦した。
髪をかきむしり、のたうち回りたい反省もあるが、前を向いて行こうか。

マチオモイ帖も、3度目の挑戦にして、ついにゆうちょマチオモイカレンダーに選ばれた。
う、う、う、嬉しい…!
これは私の作ったモックアップ。母方の祖父母のマチ、山形県酒田市を。

マチオモイ帖は今年で10周年。東京展にも行き、大阪展は設営から手伝わせていただいた。
全てが良き体験だった…。

そして、東京装画賞。何と、初挑戦にして入選することができた…!
先生、実践装画塾OSAKAから私、頑張ってますよ…!

そう、おら、頑張っただよ…!

今年は本当に、表現において自分の内側を見つめ、果敢に攻めた年だったとも言える。
今こうして、文章を作りながら、初めて思えることなんだけど。


味方どころかむしろ敵

夢を失うよりも 悲しいことは
自分を信じてあげられないこと

と平原綾香は歌うが、私は自分自身に対して、味方どころか敵のような振る舞いをしてしまうクセがある。

2020年6月、緊急事態宣言明けに少し遠出をしたとき。
私はこんな文章をFacebookに上げている。

ちょっと森まで

少し前、自転車で転んだ。思わず右手をついて、右肩から反対の筋肉まで、ことごとく痛い日が続いて、精神的にも変化が大きくて。

思いきって、森へ。

ところで私の頭の中には、ずうっと私をジャッジしたり、責めたりする声が住んでいて。
結構仲良く出来てたと思うんだけど、ケガの痛みとか、低気圧とか、そういった変化で声は大きくなる。

今日は山中をザクザクと進む足音に合わせて、

子どもたちは、どうしたの?
(どうして自分の元で保育しないの)

どうしてこんなところまで、来たの?
(家にいたら、いいじゃない)

と、ずっとね、聞こえていたね…

今の私は『描く人』で、表現の手がかりを探して森に来たつもりです。

描くための、深呼吸をしたいんです。

それではダメですか。ダメですか。
ダメですか…

あぁ、天国のおじいちゃんおばあちゃん、お母さん、今の家族、いとこの顔が浮かぶ。
こんなに己にダメダメ言ってちゃ、彼らはさぞかし悲しかろう。

でもな。

だってな。

周りに誰もいないし、ほぼ泣きかけた瞬間、足が異様に痒くなって内省は強制終了した。
雨上がりの山中は、一気に蚊が増えるんだったわ。

深呼吸深呼吸。

歩くスピードは上げたけど、目の前の景色に集中できるようになった。知ってる、知ってる、あの時見た…草木や昆虫の名前が、自分の引き出しから出てきて嬉しかった。

大丈夫、ちゃんとある。

雨はいい。
傘をさして長靴を履いていたなら、尚のこと良い。
クロッキー帳はへろんへろんになったが、たくさん描き留めることが出来て嬉しかった。
また来よう。

スケッチに行くのに、こんなにも自分を責めていたなんて。自分に泣ける。
そして2021年も、自転車で大きく転んでいることにも、泣ける。毎年恒例にしたくねぇ…

実際、人からスケッチに出かけている暇人だと思われることもままあるから。

私が近所でスケッチをしていると、人々は気軽に覗き込み、親しげに話しかけてくる。
ここは大阪、私はそんな距離感を愛しておるよ。

だが私の見た目年齢から推測して、
「あんた何してるん?主婦?子どもは何してるん?」
と尋ねられるのは苦手。
確かに私は主婦でもあり、子どもは学校と保育園に行っている。だけど趣味じゃなくて、なりわいにしたいから、自分なりに頑張ってる、のに。

子どもを保育園に預けてると言ったら、「ラクしたらアカンで」と言われたこともある。

そう言われるたびに、私は言葉を飲み込む。
確かに、私は思うように稼げてないものな。
表現も、まだまだだしな。
(ここでも、私には言い返す資格が無いって出てくる…)

だからって、ラクダのように黙って荷物を積まれとけ、と自分に呪いをかけてはいけない

断じていけない

私には私のタイムテーブルがある、
そう言い切らなくては。


絵を描く自分は他の自分と混同させない

自分を責めるのには理由がある。
安心するからだ。

例えば私は、この絵を。
(カレンダーへの採用に喜んでモックアップを作りまくった)

酒田港の海を泳ぐイカの大群、それを悠々と大らかに、神秘的に美しく、そしてどこかとぼけたように描きたかった。

だから連日YouTubeで『イカ 泳ぐ』『イカ 光に集まる』って検索しては、じっと眺めている時間があった。

そこに、出てくるのだ。
『おまえは息子にテレビの見過ぎを怒りまくっているくせに』
と、己を責める声が。

そうだそうだ、自分は何て勝手なんだ、と自分のことを責めながら、どこか安心している。
ちっぽけでみじめな自分に。

だけどちっぽけでみじめな自分からは、良い絵も生まれないんだなぁ。
結局は手を動かし始めてしばらくして、『ゾーン』に入り、『無』で『フラット』な自分に戻って、作品を仕上げているのの繰り返しである。

何でだよ(怒)

絵を描くときに、わざわざ母親としての自分を持って来なくていいじゃないか。
しかも自分を責め立て、よく分からない規範を強いてくる、相当嫌なタイプの。

母親が描いてるんじゃない、私だから描いているんだと。
絵を描く面を、太陽に向けなくては。

でも、母親になるという経験は、色々凌駕するものな…

自分も長男が乳児のときは、彼の存在が全てだったし。このまま一生『〇〇ちゃんママ』なんだろうなぁ、と思っていた。

子どものことを考えると、譲る部分も結構多いし、母親同士で話していると「私としての私」と「母親としての私」、今どっちが話してんの、となることが多いと感じる。

ひとを多面体に例えるなら。

この、面の境目すら曖昧なあり方は『球』のようだ。

私は絵を描いたり、本を読んだり、Netflixで好きなドラマ・映画と出会ったり、音楽と出会う中で、面をクリアに、輪郭(他の面との境目)をシャープにしてきたんじゃなかったのか。

それなのに、ただ丸くて、鈍く光をとらえるだけの球として振る舞っている。
丸々しいやつは、うまくいけば愛嬌があるとして好かれるもんな。
でも自分の本質じゃないんだ。

今改めて、私は一つ一つの面を大切に生きていきたいと思う。
面がたくさん細分化されていって、見た目球と変わらんやん、となっても私は己を多面体だと言い切る。

とりあえず、来年はもっと自分の絵を描く、『自分のアートをする人』としてのアーティストとして生きて行こうと思う。

Release my color!

ありがとうございます!自分も楽しく、見る人も楽しませる、よい絵を描く糧にさせていただきます!