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「いい子」の来し方行先

まず始めに。

来し方行先は、
こしかた・ゆくさき と読む。
きしかた・ゆくすゑ でも良いらしい。

これは人生をうろ覚えで渡ってきた自分のために、記しておかねばなるまいて。

こしかた【来し方】 行先(ゆくさき)
①過ぎて来た方向とこれから行く方向。 こしかたゆくすえ。
② 過去と未来。 あとさきのこと。

コトバンクより

ちなみに私が検索のために頭に浮かべたのが、『ひじかた・としぞうみたいなヤツ…!』。
この言葉を知ったのは竹取物語でさー、と出てくるあたり、真面目に勉強してきた方だと思うんだけど。
なにせうろ覚えが過ぎる。

前置きが長くなった。
本日のお題、《「いい子」の来し方行先》である。

ピンときた方は大正解!
女優メイ・ウエストの名言にひっかけてるつもりなのだ。

あれね。

いい子は天国に行ける。
でも悪女はどこへでも行ける。

(Good girls go to heaven, bad girls go everywhere.)

いや本当。
読んでふんふん、なるほどねと頷いた言葉も、本当に腹落ちしたときには何というか、漫画的表現で雷が落ちたように、ピッシャァアアア!!!みたいな、もっと衝撃を持って収められるものなのだなぁ。

私はずーっと、このnoteを使って、何度も何度も自分の思いを探し、整理し、考え続けてきたというのに。

なかなか、実践の中で「これかい?」という確信が得られなくて。
でも最近ようやく、「あぁ、これが私のパターンなのか」というのに気がついたから、出口まであともう少しかもしれない。

例えばだな。

私はずーっと、家族(特に息子たち)に対して『調理はする。でもそこから先は一緒にしてほしい』と訴え続けてきた。
料理は作るけど、食卓まで運ぶのは他のメンバーでもして欲しい。
他に取り皿を運んだり、箸を並べたりとか。

結果。

夫、動くようになった。
息子たち、動かねぇ。

そうして毎度毎度、イライラと声を荒げてアレしてコレして、と子どもたちにがなっている自分がいる。
そこへ長男は思春期の反抗期の、とにかくお年頃なのですごく『嫌』な顔、態度が返ってくる。

でも「ふーん今動かんの、じゃあ食べたらお皿も洗っておいてね。残り物はラップして冷蔵庫に入れてね」と返しても(何でオレが)みたいな顔と態度なんである。
何だよ、お年頃ってやつは…!

ある晩、私は雷が落ちるように理解した。

私がこんなに、ご飯の準備を促す声かけが苦痛なのは、それによって『閉じ込められてしまう』からだと。

以下をご覧いただきたい。

A
私、声をかける → 相手、動かない → 私、何とか相手を動かす → 
どことなく上下関係になって閉じ込められる(相手が自分の子どもでも、動いて「もらう」感じになるので)

B
私、声をかける → 相手、動かない → 私、自分のことをする → 
〇〇なのにそんなことしていいの?という思考が生まれ、罪悪感と自責で閉じ込められる

どっちにしても詰んでいる。

Aでは、ご飯というのは本人が成長したり、生きるために食べるはずが、その後の片付けとかお風呂などの生活リズムとか、保護者側の都合もあるとはいえ「食べてもらう」になっていること。

Bでは、こちらが料理を作っても、息子たちは優雅に寝そべってマンガなんぞ読みながら、机の上に全部並べられるのを待ってる。
それならばお母さんは自分の分を運んで、先にいただきましょうかね。
…ってすると、

母親なのにそんなことしていいの?
そのくらい、やってあげればいいじゃない。
自分だけ先に食べるなんて、そんなのずるい。
食べたら食器を洗わせるなんて、子どもがかわいそう。

これだけのことが、瞬時に頭に浮かぶんだ。
そして私は、私ってダメだなぁ、と自分を責めて傷つける。

そういう仕組みだったのだ。

先述の太字は、今まで受け取り、培ってしまったジェンダー的な刷り込みも大いにあると思うのだが。
こちらの本もすごく共感したので引用する。気分変調性障害。

自責の念とかね。
欠落感とかね。

大事なのは、自分の内に、外に、こういう言葉が出てきたとき、

これって別に、一般常識でも何でもない、
ただ、私を閉じ込める言葉なんだ。

と意識すること。
それが、「脱出」の第一歩になる。
一般常識だと思っちゃうと、従わなくてはならない、と思ってしまうからね。

これも最近読んださ。とてもよかった。


私は上記の気づきを、家族に話した。

毎日ご飯の準備するよ、って声をかけるのが本当にしんどいんだ。
自分一人で、大きなプールを一生懸命かき混ぜて、流れを作る感じ。だって家のことは回っていかないと困るから。
そこに息子たちは無邪気にわーい流れるプールだー、って飛び込むだけなんだよね。

声をかけても動かない相手とのことを一度区切って、自分のことに専念するのもむずかしい。
お母さんなのに、とか優しくない、とか子どもがかわいそうだ、とか自分の中にジャッジが生まれるんだ。

私のしんどさはこういう仕組みになってるってこと、しんどさを解除するにはただ切り替えればいいわけでもないこと。
だけど私には自分を幸せにする義務と権利があるから、声をかけても脈なしだったら、もちろん、場面場面で誠実であることはだいじに、『自分』に切り替えて行こうと思う、と。

そうしたら次の日、長男が早く帰ってきて。
(いつもはご飯が並ぶタイミングを見透かしたように帰ってくる、おいしいとこどりなのに)

ママが話してたこと、ちょっと考えてみたんだ、って。

全わたしが号泣したね😭

今までも、子どもの頃だって、自分の主張を伝える時、相手に何かを頼む時、こういう閉じ込められる仕組みについて話してはきたんだけど。
難しいこと考えてるなぁ、とか理屈こきやなぁ、って返されて、終わり。
ラベルを貼られることに慣れちゃって、言わなくなってたんだけど。

私を理屈こきだとジャッジせずに、話の内容に耳を傾けてくれた長男に、感謝の気持ちでいっぱい。

いい子は天国に行ける。
でも悪女はどこへでも行ける。

瀧波ユカリ『わたしたちは無痛恋愛がしたい』で、のりこさんというキャラクターはこう言っている。

いい女だろうが悪い女だろうが
あなたはどこにもいかない
人を痛めつける奴が出て行けばいいんだよ‼︎

瀧波ユカリ『わたしたちは無痛恋愛がしたい 〜鍵垢女子と星屑男子とフェミおじさん〜』(アフタヌーンKC)

私はしばらく、この言葉を咀嚼してみようと思う。
もぐもぐ。

ありがとうございます!自分も楽しく、見る人も楽しませる、よい絵を描く糧にさせていただきます!