言葉柄に酔う
朝、報道番組で谷川俊太郎さんの訃報に際し、
過去のインタビュー映像を目にした。
テレビの中の谷川先生は、
詩とは不思議です。短い言葉でね、時々理由もなく、人の胸をぐっと掴んでしまうんですよ。
とおっしゃっていた。その後に、
今はね、言葉のインフラが起きているように感じています。言葉が氾濫して薄っぺらくなっているような。フェイクがまるで本当のように認められてしまうとかね。と続けた。
一言一句このままではない。ニュアンスとして受け止めてほしい。
車の中で、谷川先生の言葉を噛み締める。
言葉のインフラの世界の住人である。
だからこそ、人の心をぐっと掴む言葉を選んで使って生きていきたい。
夫が運転する車の助手席で、そんなことを思う。
若い頃に一度、東京の有楽町に谷川俊太郎さんと荒木経惟さんの出版記念のトークショーを見に行った。10代の私には神様みたいな2人の話をする様子にそれだけでもう胸がいっぱいになり、そのサイン入りの著作を並んで買うエネルギーがなかった。近くで見たらどうかなりそうで、帰ってきてしまった。オーラに当てられたのだと思う。
高校の校歌は、谷川先生の作詞で息子の賢作さんの作曲だった。私達は、それを今も誇りに思っている。
優しく平らけく、開けた言葉を使うこと。
言葉が人を選ぶような事がないように。
私が文章を書く時に心がけていることの、ずっとずっと前を谷川先生が歩いている。
車で出向いた先は、義母が行きたいと言った場所だ。
それは山道の先に現れた。
星野富弘さんは、今年の4月にお亡くなりになられた。
美術館では記帳も準備されていた。
星野富弘さんの言葉と絵の力は、あえて私が語るようなものではないが、一枚一枚の作品をじっくりと向き合い、言葉を咀嚼すると、自分の中にぷつぷつと湧き上がるものを感じた。
それは、感動よりは躍動に近い。
優しい言葉しか使われていない。
心の道のりを誰にでもわかる言い方を選んで語りかける。
花に話すように。
虫に語りかけるように。
風がきいているかもしれない。
目に見えないものや、語ることのない命への敬意を感じる言葉の綴りである。
それは、インフラなどものともしない。
ここには、豊潤で跳躍力のある生きた言葉が並んでいた。
絵画の素晴らしさと、言葉の力強さが相まって唯一無二の存在感に圧倒された。
いくつかエッセイもあり、一つのエッセイを読んでいたら、涙が湧いてきた。
それは、散歩中に友人と会った際のやりとりで
「さっきの夕焼けを見ましたか?」と質問され、「ええ、すごい色の夕焼けでしたね」.と返事をすると、友人が「夕焼けが綺麗だったねという話をする友達がいて嬉しい」と言ったという内容だった。
ぐっときてしまった。夕焼けを綺麗だったねと言い合える友達。大人になりそれほどの友達がいることは、どれほど幸せなことだろう。
思い出すとまた鼻の奥があつい。
星野富弘さんの作品には、割とユーモアが散りばめられているものもあり、くすりと笑ってしまうものもある。
どうしても笑わせたくなってしまう。と語る新聞記事には親しみを感じた。物を表現するものの性に微笑む。
美術館の中は撮影禁止だった。
テラスから見える景色は壮大だった。
義母は、感激して何度もありがとうと言っていた。
もう一度、手が動くなら母の肩を叩きたい。
ぺんぺん草の花に添えられた富弘さんの思い。
手も足も元気に動く私達は、よっぽど親孝行をしなければならない。
そして、インフラに惑わされない血肉の通った言葉を使わなければならない。
理由なんか後回しで、人を動かすような言葉。
人柄というものがあるように言葉にも言葉柄がある。
言葉柄に酔いました。
私もぜひに人を酔わせる言葉柄を身に付けたい。
そうありたいものです。