『独ソ戦』が明らかにする「絶滅戦争」の影
「本物」による解説
この夏、出版界に最も大きなインパクトを与えたのは大木毅『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』(岩波新書)だろう。
発売から二か月近くがたつが、着実に版を重ね、累計50000部に達した。大木氏は前著『「砂漠の狐」ロンメル』(角川新書)も好調だった。
ドイツ軍関係の専門書の翻訳等を手掛け、防衛研究所などでの勤務経験もある「本物」の専門家が放つ、最新研究を盛り込んだ歴史書が多くの読者に受け入れられている。
「絶滅戦争」という思想
「独ソ戦」と言えば、冬装備のない独軍が冬将軍に負けた、スターリングラードの戦いが凄惨を極めた、あるいは「土から採れるソ連軍兵士」と言われる兵数の面で独軍が後塵を拝した――程度のにわか知識しかなかったのだが、「独ソ戦についてはある程度知っている」という人ほど、最新研究をふんだんに盛り込んだ本書に認識を覆されるかもしれない。
本書ではドイツがどのような勝算や戦略を基に対ソ戦争に乗り出したのか、それがいかに実態とかけ離れたものだったかを分析するとともに、「何のために」ソ連に相対したのかを解説する。
それはドイツ国民の「生存圏」の確保という大義名分と一体化した「スラブ民族、ボルシェヴィズムは絶滅すべし」というゆがみ切った世界観による、皆殺しの論理だったのだ。
「絶滅すべき」であると自身が認定した民族を、実際に絶滅しにかかるところにナチスドイツの恐ろしさがある。その点で、ユダヤ人に対する政策と、対ソ戦争は同じところから出てきているといえるのかもしれない(本書には両者の関連についての一節もある)。この点はリチャード・ベッセル『ナチスの戦争 1918-1949 民族と人種の戦い』(中公新書)にも詳しい。
「現代の野蛮ともいうべき凄惨な様相」
彼らはなぜ、誰が聞いても荒唐無稽かつ非人道的な民族の「絶滅」を企図し、実行に移したのか。異を唱える者はいなかったのか。あるいは(第一次大戦の時のように)サボタージュするものはいなかったのか。この点についても、『独ソ戦』は、ドイツは軍も含め、単にヒトラーの妄想に付き合わされただけではなかった実態を指摘する。
独ソ戦の人的被害はソ連側の戦死者(戦傷死、戦病死含む)だけでも700万人にものぼる(第二次世界大戦全体では2700万人)。想像を絶する途方もない数であり、捕虜の虐待や民衆に対する虐殺行為も横行したこの戦場では、徹底して「個」は軽視され、すりつぶされた。それはドイツ側の歪んだ思想だけではなく、ソ連側のナショナリズムとコミュニズムが掛け合わされた煽動があり、《両軍の残虐行為は、合わせ鏡に憎悪を映したかのように拡大され、現代の野蛮ともいうべき凄惨な様相を呈していった》。
死者への憐憫の情など抱くはずもない
一方、ナチス幹部たちは徹底して「個」にこだわった。Netflixで配信中の『ヒトラーの共犯者たち』を見ると、それがよくわかる。
ナチス幹部たちは一方で戦争を拡大させ、ユダヤ人を虐殺しながら、内部では自身の生存競争に必死だった。少しでも党(=ヒトラー)の方針に異を唱えたとなれば出世競争から外される。同じ党の幹部でも、いつ寝首をかかれるかわからず、ヒトラーからの寵愛を受けられなくなれば、最悪の場合は殺される。
そこでは日々、戦地とはまた別の「生きるか死ぬか」の戦いが繰り広げられており、「弱いものは死ぬ。間違ったものは淘汰される。死ぬのは弱いからであり、淘汰されるのは間違っているからだ」とでもいうような空気が蔓延していたように見える。
何より、「優秀なるアーリア人」、つまり自国の兵士の損害すら悼む様子がない彼らが、絶滅対象とされた民族に対する憐憫の情など、抱くはずもない。
独裁的強権をふるう人物や組織をすぐにヒトラーやナチスに例える、あるいは比較対象として持ち出す向きは後を絶たないが、知れば知るほど、おいそれと引き合いに出すことがためらわれる。