《世界史》ナポレオン3世
こんにちは。
今日はナポレオン3世についてまとめます。ナポレオンの孫?と勘違いしてしまいますが、甥に当たります。
ナポレオン3世(1808〜1873)
ナポレオン3世は1808年ナポレオン末弟ルイとオルタンスの間に三男として生まれます。母オルタンスはジョゼフィーヌの娘(前夫との子)で、母と同じく恋多き女性でした。そのため、ナポレオン3世の出生も本当に父の子なのかという疑惑を持たれ続けます。
両親の夫婦仲は悪く、ナポレオン3世の生後すぐ離婚します。ナポレオンが没落すると、母とともにバイエルンで亡命生活を送ります。バイエルンで生活を送っていたので、彼は生涯ドイツ語訛りのフランス語は治りませんでした。
1830年に母とイタリアへ移住、成長するとイタリア統一運動に従事するようになり、イタリアから追放されます。この途中で兄が亡くなりました(長兄はすでに夭折)。1832年にナポレオン2世(ナポレオンの嫡出子)が亡くなり、ボナパルト家の後継者となります。スイスで過ごしていたナポレオン3世は従妹マチルド(ナポレオン弟ジェロームの長女)と婚約しますが、一揆を起こし失敗、投獄されてしまいます。彼の無鉄砲な行動に激怒した伯父ジェロームからマチルドとの婚約は破棄されてします。
母を亡くしたあと、再度一揆を起こしますが、また失敗、投獄されてしまいます。投獄先から逃亡、父もなくなります。
なんども失敗したわけですが、1842年のニ月革命で転機が訪れます。毎回彼を弾圧していたルイ・フィリップ王が失脚し、ナポレオン3世は政界に進出します。あまり冴えない見た目とドイツ語訛りの話し方で政治家からはバカにされていましたが、ナポレオンの遺功があり、ついには大統領となります。しかし、傀儡の大統領でしかなかったため、彼は満足せず、クーデターを決行、1852年皇帝となります。共和派を異父弟モルニーに弾圧させ、権力を盤石なものとします。
当時独身だったナポレオン3世は結婚を検討します。ボナパルト家としては各国王室との結婚を望んでいましたが、ナポレオンと同じくどこの王室も相手にしませんでした。結局スペイン貴族の娘ウジェニー・モンティジョと恋愛結婚しました。この結婚は貴族階級からは好まれませんでしたが、ウジェニーは社交的な生活を活かし、社交界を盛り上げます。ウジェニーは1856年念願の男子ナポレオン4世を出産します。ナポレオン3世の度重なる浮気で夫婦仲は悪化してましたが、次第にウージェニーの影響力は絶大なものとなります。
ナポレオン3世の業績で最も有名なのはパリ改造でしょう。彼はオスマンを知事に任命し、道の入り組んだパリを現在の美しい街並みに大改造しました。
しかし、対外政策では失敗します。メキシコではマクシミリアン(フランツ・ヨーゼフの弟)の擁立に失敗し、彼を見捨てたため、各国から批判を浴びます。一方ですでに彼は老年に入り判断力が鈍っていため、皇后ウジェーニの影響も考えられます。1870年ビスマルクの挑発にのり、普仏戦争を始めてしまいます。準備不足で臨んだため、フランスは大敗、ナポレオン3世自身も捕虜になります。完全に民心を失い、解放されるとイギリスに亡命、4年後死去します。享年64歳。
彼の息子ナポレオン4世は、ヴィクトリア女王から可愛がられ、末娘ベアトリスとの婚約が検討されるほどでした。しかし、1879年イギリスへの恩返しとして従軍したズールー戦争で戦死します。母ウジェニーは故郷スペインに戻り、94歳まで長生きします。
ナポレオン3世の亡命後、パリでパリ・コミューンと言われる社会主義政権が成立します。当時史上初の社会主義政権でクールベも参加しましたが、すぐ鎮圧されてしまいます。
その後、ブルボン家を再度王家に迎える案が検討されますが、結局共和制に落ち着きます。この共和制はナチス占領下を経て、ド・ゴール政権、現在のマクロン政権にまで至ります。このことについては後日取り上げようとおもいます。
今までの投稿でも少し登場していたナポレオン3世。初代に比べると存在感薄いですが、現在のパリの街並みを作った人です。
次回はドラクロワとクールベ、ミレー、モローについてまとめます。
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