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《美術史》ココ・シャネル
こんにちは。
Ayaです。
2度の世界大戦を経て、女性の活躍がようやく認められるようになります。そのパイオニアとして、ココ・シャネルを取り上げます。
ココ・シャネル(1883〜1971)
ココ・シャネルは1883年フランスに生まれます。本名はガブリエル・シャネル。生家は貧しく、母が亡くなると孤児院に預けられます。この孤児院で裁縫を身につけて、生涯の武器となるのです。
孤児院のあとは寄宿舎に入り、成人すると仕立て屋のお針子になります。生活の足しにするためキャバレーで歌手としてつとめており、そのときの芸名が『ココ』(彼女の十八番から)でした。女優や歌手を夢みましたが、目が出ず、諦めます。
その頃、繊維業者の息子で元フランス軍将校のバルサンと出会い、愛人になります。バルサンは有名な競馬狂いで、シャネルにも乗馬を教えました。当時の女性はルイ16世時代のスタイルで、乗馬時は横乗りしなければない上、脚が見えるとはしたないとされたのでブーツを履かなければならず、動きずらい服装でした。シャネルはこのことを不満に思い、男性用のズボンを仕立て直して着用しましたが、人々の顰蹙を買ってしまいました。
そのうち、シャネルはバルサンの友人ボーイ・カペルとも関係を結びました。彼については後年「私が愛したただ一人の男」と語っています。カペルの服装からデザインをインスパイアされたり、『シャネルNo.5』の着想も彼だったと言われています。カペルが結婚しても2人の関係は続き、1919年のカペルの交通事故死では嘆き悲しんだと言われています。
バルサンの愛人だったときから、シャネルは趣味で帽子を作っていました。バルサンの女友達たちのために作られたもので、暇つぶしのようなものでした。シャネルが2人と別れて芸能界に再び挑戦すると言ったとき、カペルが帽子デザイナーとして働くようにアドバイスしたことがきっかけで、1910年帽子店を開業します。帽子店は瞬く間に繁盛して、雑誌に取り上げられるほどでした。
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自信をつけたシャネルは、カペルの援助を受けて、1913年にはブティックを開業します。シャネルのブティックも成功し、すぐ多店舗営業となります。1919年には職業を『クチュリエール』とし、ジュエリーや化粧品まで事業を拡大します。
しかし、ライバルのスキャパレリに敗れ、第二次世界大戦がはじまると店を閉じてしまいます。
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シュールレアリズムをファッションに導入した。
ナチス・ドイツがフランスに進駐してくると、ナチ高官と懇意になります。ユダヤ人の『シャネルNo.5』共同経営者に不当に利益を奪われていると感じていたからでした。ナチ高官と交際したり、最終的にはナチスのスパイエージェントとなっていました。終戦後ナチと親しくしていた女性たちはリンチに遭いましたが、シャネルはチャーチル首相とのパイプ役だったこともあり、制裁を受けることはありませんでした。しかし、このスキャンダルが明らかになり、引退に追い込まれます。
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スイスを拠点に引退生活を送っていたシャネルですが、次第にファッション業界の流れに不満を持ちます。戦後ファッション業界を支配していたのはクリスチャン・ディオールでしたが、彼のデザインはコルセットで女性を締め付けるもので、シャネルの目指していたファッションではなかったのです。
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シャネルの引退後、ファッション業界を牽引していたのはディオールやバレンシアガら男性デザイナーだった。
1954年シャネルは15年ぶりにファッション業界に復帰します。最初のコレクションは古臭いと酷評されましたが、シャネルは諦めず粘り続けます。このとき救いの手を差し伸べてくれたのが長年争ってきた『シャネルNo.5』の共同経営者で、シャネルに資金提供しました。パリでは相手にされなかったシャネルのコレクションですが、ファッションの中心地になりつつあったアメリカでは賞賛されました。次第にヨーロッパでも受け入れられるようになり、ファッションの表舞台に返り咲きます。
体調を崩す直前までコレクションの準備をしていたシャネルは、1971年亡くなります。享年87歳でした。
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シャネルの創業した会社は未だに世界一有名なファッションブランドとして経営されています。
『ココ・シャネル』、まとめ終わりました。シャネルは時代を牽引したカリスマでした。一方で、若い頃の愛人生活やナチスのスパイだった時代もあるので、賞賛だけするのは難しいです。しかし、当時の社会背景で孤児院育ちの女性で成功するのは不可能に近かったはずで、きっとがむしゃらに生きた女性だったのでしょう。
現在、東京の三菱一号館美術館で『ガブリエル・シャネル』展が9月25日まで開催中です。シャネルのディテールのこもった作品たちが展示されています。
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開催概要|ガブリエル・シャネル展 Manifeste de mode|三菱一号館美術館(東京・丸の内) (mimt.jp)
明日は『ソ連建国の父 スターリン』についてまとめます。