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《世界史》平和王エドワード7世と美貌の妃アレクサンドラ

こんにちは。
Ayaです。
今日からイギリスにもどり、エドワード7世から取り上げます。ヴィクトリア女王の長い治世が終わり、息子エドワードが即位します。

エドワード7世(1841~1910)


エドワード7世は1841年ヴィクトリア女王と王配アルバートの長男として誕生します。待望の男子として大切に育てられましたが、姉ヴィッキーのように優等生ではなく、反発するようになります。

ヴィンターハルター『王太子エドワード』
幼少期は『バーディ』の愛称で呼ばれていた。


母子関係が破綻するのは、エドワードが大学生のときでした。エドワードは大学で問題を起こし、父アルバートが呼び出されます。体調不良にも関わらず無理に向かったため、父アルバートは亡くなってしまいます。最愛の夫を失った母ヴィクトリアは息子を恨みました。
その一年後、父の死因だった腸チフスに罹患し、重態に陥ります。さすがに母ヴィクトリアも駆けつけ、懸命に介護します。すると、父アルバートの命日に容体が持ち直します。
とはいえ、女性関係が特に激しく、母ヴィクトリアは美人と結婚させればおさまるだろうと判断します。こうして白羽の矢が立ったのは、デンマーク王女アレクサンドラでした。

エドワード7世


王妃アレクサンドラ・オブ・デンマーク(1844~1925)


アレクサンドラは1844年デンマーク王室の分家に生まれます。妹マリヤの稿でも述べましたが、父がクリスチャン9世として即位すると、待遇が一変します。《世界史》アレクサンドル2世とアレクサンドル3世皇后マリヤ・フョードロヴナ|Aya|note
一国の王女の身分と生まれ持った美貌から、縁談が各国から舞い込みます。
ヴィクトリア女王は最初この縁談に乗る気はありませんでした。長女ヴィッキーの嫁ぎ先プロイセンがデンマークと領土問題を抱えていたからでした。しかし、実際の彼女と面会すると、その美貌と人柄に魅了され、結婚を決めます。妹マリヤに見送られ、イギリスに嫁ぎます。

結婚当初のエドワード夫妻とヴィクトリア女王
夫アルバートを失ったばかりだったので、彼の胸像を見つめるヴィクトリア女王。


美貌の妻を得たエドワードでしたが、素行の悪さは変わりませんでした。アレクサンドラの頸元にあった手術痕に興ざめしたといわれていますが、母が連れてきた結婚相手だったので気にいらなかったのでしょう。アレクサンドラも子育てに専念し、子どもたちにも常々『父のようにならないように』と言い聞かせました。しかし、夫婦そろって派手好きで、保守的なヴィクトリア女王とはそりが合いませんでした。
エドワードの弟アルフレートの妻・マリアとも険悪な関係でした。彼女は自分はロシア皇帝の娘であり、デンマーク国王の娘アレクサンドラより格上と主張、アレクサンドラは猛反発しましたが、結局彼女の主張が通ってしまいます。

アルフレートの妻マリア
アレクサンドル2世の娘。いつまでも皇帝の娘という称号に執着したため、宮廷では煙たがれていた。


ロシアのアレクサンドル3世のもとに嫁いだ実妹マリヤとは、結婚後も親交が続きました。自分と比べ、夫と義理の両親とも仲の良かった実妹を羨ましがったといわれています。ヴィクトリア女王が溺愛していたアリックスとニコライ2世の結婚には妹とともに反対しました。アリックスの神経質な性格を熟知していたからでした。ロシア革命では、息子ジョージ5世に命じて戦艦を派遣し、実妹とその娘たちを救出しています。
1901年夫の即位によって王妃となりました。すでに50代でしたが、30代に見えたといわれています。

エドワード7世妃 アレクサンドラ
頸の手術痕がコンプレックスで、ネックレスや衣装で隠していた。

エドワードの愛人たち


エドワードは女性を巡ってチャールズの父に決闘を挑むほどで、生涯多くの女性たちと関係を持っていました。中でも有名な3名の愛人たちについて取り上げます。
(1)リリー・ランドリー
リリーは平民出身の女優で、1877年ごろにエドワードと関係を持ちました。美人で身をわきまえて接したので、アレクサンドラも彼女には嫉妬しませんでした。1880年にはエドワードとの交際を終わらせます。その後も自分で舞台制作会社を立ち上げるなど活躍しています。1929年死去。

リリー・ランドリー


(2)デイジー・クレンヴィル
デイジーとは1889年ごろから関係を持っていました。貴族出身の人妻でしたが、エドワードはデイジー・ワイフと呼んでいました。とはいえ前の愛人リリーのようにアレキサンドラを立てなかったため、嫌われていました。次第に社会主義運動にのめりこみ、エドワードにも影響を与えました。しかし、社会主義運動に傾倒しすぎたため、1897年関係を終わらせています。
(3)アリス・ケッペル
アリスはエドワード最愛の愛人でした。スコットランドの有力貴族の出身で、あまりパッとしない貴族の三男坊ジョージ・ケッペルと結婚します。これは宮廷に出入りするための結婚といわれています。
1898年にエドワードが彼女を『ロイヤル・ミストレス』に命じているので、それまでには関係をもったようです。それからエドワードの崩御するまでの17年間、エドワードは片時も離したがりませんでした。賄賂を要求したり、政治的な活動にも関わらなかったため、廷臣からの評判も良かったようです。身の程をわきまえて接したため、アレキサンドラも前任のデイジーほどは嫌っていなかったみたいです。エドワードの崩御後宮廷を退出し、1947年亡くなりました。有名な話ですが、彼女の曽孫がチャールズ王太子の妻カミラです。

アリス・ケッペル


即位時すでに50代後半だったエドワード7世でしたが、持ち前の社交的な性格と語学好きを生かして、王室外交を展開しました。その実績から『平和王』というあだ名がつけられています。しかし、その治世は10年の短さでした。1910年崩御、享年68歳。
彼の死により、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の暴走を止められなくなり、ヨーロッパは第一次世界大戦に突き進みます。

ドイツ皇帝 ヴィルヘルム2世
エドワードの姉ヴィッキーの息子で、甥にあたる。


アレクサンドラは息子ジョージ5世を支えながら、1925年亡くなります。享年80歳。

今日はここまでとします。叔父としてヴィルヘルム2世の暴走を抑えていたエドワード7世ですが、その死で止められなくなります。息子ジョージ5世は困難な時代を迎えます。

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