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《世界史》スペインハプスブルグ家
こんにちは。
Ayaです。
1516年カルロス1世の即位によって成立したスペインハプスブルグ家ですが、1700年に最後の国王カルロス2世が崩御し、断絶してしまいます。その理由が度重なる近親婚とされています。
当時宗教改革の時代であり、カトリック国家の数が激減していました。カトリックとプロテスタントの結婚は異教徒との結婚より悪いとされていました。その上スペインと釣り合う国家となると、フランス、ポルトガル、オーストリアぐらいとなってしまいます。オーストリアは分家ですし、ポルトガル国王もフェリペ2世から兼任するようになります。フランスは対立していたこともあったので、自ずと婚姻相手が限られてしまったのです。
今回はそれぞれの国王の概略と婚姻についてまとめてみました。
カルロス1世(1516~1558)
神聖ローマ帝国皇帝としてはカール5世です。(受験生泣かせとして有名ですね)功績としてはライバルのフランソワ1世に勝利し、神聖ローマ帝国皇帝として即位したことがあげられます。
前稿でも述べましたが、1556年に息子フェリペ2世にスペイン王位を譲ります。2年後崩御しました。
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カルロス1世はティッツアーノを支援していた。ティッツアーノが落とした筆を拾ったという逸話がある。
妻はポルトガル王女イザベルです。母がフアナの妹で、カルロスとは従妹にあたります。夫婦仲はよく、不在がちな夫のかわりに摂政をつとめていました。子どもにはフェリペ2世、マリア(神聖ローマ帝国マクシミリアン2世妃)などがいました。1539年難産の末亡くなり、以後カルロスは喪服で過ごしました。
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フェリペ2世(1527〜1598)
ブルゴーニュフィリップにフェリペ1世の追号がなされていたため、2世となります。スペインハプスブルグの黄金期を築いた国王です。性格から『慎重王』、書類に囲まれて執務を取ったことから『書類王』などのあだ名があります。
スペインは大量の植民地を持っていて、その領土では日の沈む時間がなかったことから、『日の沈まぬ国』と呼ばれていました。1588年エリザベス女王に無敵艦隊が敗れるアマルダの海戦から、国運に陰りが見えてきます。1598年崩御。
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普段全く笑わない人物だが、カトリックの盟主として知られ、サンバルテルミの虐殺の報を聞いた時、唯一笑ったといわれている。
フェリペ2世ですが、実は4回も結婚しています。ヘンリー8世ほどではないにしろ、結婚相手がなくなってしまう不幸な国王でした。
1番目の妻はポルトガル王女マリア。父方でも母方でも従妹にあたります。1545年男子(後のドン・カルロス)を出産しますが、そのままなくなります。
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2番目の妻はイングランド女王メアリー1世です。メアリーの項でも書きましたが、彼を夫に迎えたことでプロテスタント迫害が強まったともいわれています。11歳も年上で、結婚後すぐに婦人科系の病気が見つかってしまいます。1556年には父カルロス1世の退位があり、イングランドにはほとんど訪れなくなります。1558年崩御。
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メアリー1世の死後にはエリザベス1世にプロポーズするという卑劣な行動をしている(宗派の違いから断られた)
3番目の妻はフランス王女イザベルでした。彼女はアンリ2世の娘で、もともとフェリペ2世の息子ドン・カルロスと婚約していました。しかし、ドン・カルロスは跡取りとして問題があったため、その父のフェリペ2世と結婚しました。このことから、よく物語でフェリペ2世は二人を引き裂いた老獪な国王と描かれますが、実際の夫婦仲はよかったようです。彼女は2女出産しますが、1568年死産の末なくなります。偶然ドン・カルロスも数か月前亡くなっている(ネーデルランドに渡ろうとして逮捕され、獄死)ため、創作ではそのように取り上げられているようです。
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スコットランド女王メアリー・スチュアートと親しく文通していたことでも知られる。
妻と息子の死によって、再び結婚の必要に迫られたフェリペ2世でしたが、上述の条件のせいでなかなか決まりません。結局4番目の妻にはマクシミリアン2世の娘アナがなりました。このアナの母はフェリペ2世の妹マリアであり、初の伯父姪婚となります。カトリックでは認められない近親婚のため、当時のローマ教皇は反対しましたが、結局認められました。1578年待望の男子(後のフェリペ3世)を出産しますが、1580年はやり病のため亡くなりました。
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4人の妻のうち2人は出産時の不幸で亡くなっていることからも、当時の出産の大変さがわかります。
フェリペ3世(1578~1621)
やっと生まれたフェリペ3世でしたが、体が弱く、父フェリペ2世は息子の将来に不安を感じていたようです。父の死後、政務は側近に丸投げであったため、『怠惰王』という不名誉なあだ名がつけられています。1615年慶長遣欧使節団の支倉常長と謁見しています。1621年崩御。
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フェリペ3世の妃はオーストリア大公女マルガリータです。父のカール大公はマクシミリアン2世の弟なので、母アナの従妹にあたります。子どもにはフェリペ4世とアナ(ルイ13世妃)、マリア(神聖ローマ帝国フェルディナンド3世妃)などがいます。
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フェリペ4世(1605~1665)
若年で即位したため、治世前半は父と同じく政務を側近に丸投げしていましたが、その後は一応親政をひいていました。
当時スペインはなんとか強国の体面を保っていましたが、フェリペ2世治世には及びもつきませんでした。またイギリスやオランダが急速に勢いをつけている時代でもあり、彼の治世でスペインの衰退は決定づけらました。
しかし、審美眼に優れ、ベラスケスを見出したり美術品の収集につとめ、後のプラド美術館の礎を作りました。
1665年崩御。
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はじめてベラスケスに肖像画を描かせたとき『今後彼以外に余の肖像画を描かせるな』と言った逸話がある
フェリペ4世は2度結婚してます。最初の妻はフランス王女でアンリ4世の娘イザベルです。彼女は多くの子供を出産しましたが、男子はバルタサール、女子はマリア・テレサ(ルイ14世妃)しか成長しませんでした。1644年亡くなります。
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息子のバルタサールの婚約者には、フェルナンド3世の皇女マリアナが内定していました。しかし、バルタサールが1646年に急逝してしまいます。婚約者のマリアナは嘆き悲しみますが、なんとバルタサールの父であるフェリペ4世と結婚することになってしまいます。マリアナはフェリペ4世にとって妹マリアの娘であり、スペインハプスブルグ家にとって、2度目の叔父姪婚でした。
マリアナは何度も妊娠しますが、成長したのはマルガリータ・テレサ(『ラスメニーナス』の主役)のみでした。
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フェリペ4世自身も諦めていましたが、1661年待望の男子が生まれます。後のカルロス2世でした。
カルロス2世(1661~1700)
フェリペ4世の待望の世継ぎとして生まれたカルロス2世でしたが、多数の身体障害や精神障害を抱えており、『呪われた子』と言われるようになってしまいます。(本人も呪われていると思っていたそうです)この障害は度重なる近親婚によるものでした。
3歳で父が崩御し即位しますが、10歳までろくに話せなかったといわれているので、常に摂政を置いていました。摂政は実母マリアナと庶兄オニャテ伯が務めましたが、この2人はたびたび対立している状況でした。
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世に言う『ハプスブルグの顎』、つまり下顎前突症が顕著で、常によだれをたらしていたと言われる。
その生殖能力にも疑問符がつきましたが、2度結婚しています。
最初の妻はルイ14世の弟オルレアン公の娘マリア・ルイサです。美貌をもてはやされましたが、子供ができないストレスで病的な肥満になり、26歳で急死してしまいます。あまりに急な死だったため、カルロス2世の母マリアナの毒殺説が流れました。
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2番目の妃にはプファルツ選帝侯の娘マリア・アンナが選ばれました。選ばれた理由は多産の家系だからとのことでしたが、やはりこどもは生まれませんでした。
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夫の死後、スペインを追放され、数十年間亡命生活を送る。
カルロス2世は前妻の墓をあばき、遺骸を手元に置くなど奇行が目立ってきます。これは一種の自殺願望の現れではといわれています。
結局、異母姉マリア・テレサの孫でルイ14世の孫のフィリップを後継指名し、1700年崩御します。『死に瀕している』といわれた彼が39歳まで生きられたのは、スペインハプスブルグ家最期の粘りだったのでしょうか。
この後、ルイ14世はスペイン継承戦争に勝利し、孫のフィリップをスペイン王とします。スペインブルボン家の始まりで、現在まで続いています。
さすがに5代は長かったです‥。叔父姪婚2回で見逃しがちですが、それ以外も十分親戚間の結婚なんですよね‥。なんだかカルロス2世は先祖代々の罪を一人で被ったように感じてしまいます‥。
次回は私の大好きな『ラスメニーナス』についてまとめたいと思います!!