ドイツ シュタイナー教育 | 都内広告代理店で大活躍した話。
初めまして、増谷恵花です。ここでは現在の会社に入社するまでのちょっと変わった私のバックボーンと、その経験を生かし、今ディレクションやデザインの仕事をどのように楽しんでいるかをお話ししたいと思います。
良ければ読んでいってください。
▶育った環境
私は海外育ちのお坊ちゃまと関西のヤンキーの間に生まれ、
イギリスとドイツで0歳〜18歳まで育ちました。
この時点で胸焼けしそうな情報量ですよね。
ちなみに母国語はドイツ語です。(追い討ち)
最初からドイツ語が話せたわけではなく、少し複雑で...
0歳の頃から複数の言語が飛び交う環境にいた影響で、子供の脳では処理できず、"何も話すことのできない子"でした。
言葉で伝える事ができないので、常にクレヨンを持ち歩き、絵を書く事でコミュニケーションをとっていました。
加えて全てに疑問をもつ性格で、なんで?どうして?がとまらず、納得しないと言うことをきかない、超頑固もの。
1日が24時間な事に納得できなかったから時計も読めなかったし、座って食べる意味にも納得できず、必ず踊ったり側転しながら食べていました、もちろん学校でも。(今思えばものすっごい迷惑)
けれど本人は絵を書いて、運動して、ずっと笑顔で超楽しく生きてました。
とにかく感性が豊かだったらしく、オーラの色(?)で人の感情を判断し、言葉で人と話せないからか架空の妖精や草木と楽しくお話していました。
一方で両親はオーラとか妖精とか言っている私には凄く苦労していたと思います。
結果いろんな病院をつれまわされるのですが、ドイツの病院では飴がもらえるのでそれも嬉しく思っていました。
医者の「10歳まではこういう子意外と多いんだよ〜好きにさせてあげな〜」というアドバイスで父親は安心したのですが、それでも落ち着けなかった母親は家族にも相談するようになりました。
すると、
母親の兄「俺も異常なくらい物事に疑問をもってるし、頑固だよ。」
母親の弟「俺、今でもオーラ見えてんで。」
母「こいつらのせいやん」
そもそも血筋が変人でした。
やっと私を矯正する事を諦めた母親はドイツの公立学校での教育を続ける事は厳しいと判断し...
▶変人が揃う学校、シュタイナーへ入学
ここまでの話を聞くと、とても一緒に仕事したい!とは思えないですよね。
安心してください、このシュタイナー教育が私を変えてくれました。
▶シュタイナー教育とは?
20世紀はじめのオーストリアの哲学者・神秘思想家ルドルフ・シュタイナーが提唱した「教育芸術」。子供が「自由な自己決定」を行うことができる「人間」となるための「出産補助」であるという意味で、「一つの芸術」であると考えられている。詳しくはwiki
要は個性を受け入れて自由に育ててあげようという学校で、
私は小4〜高3までこの教育を受けています。
教科書はなく、自分たちで調べた事を真っ白いノートにまとめます。
そして「教育芸術」と聞くと、絵を描いて、芸術にふれて、ハッピー★みたいに思われるのですが…
実際は全然違います。
通常の授業では鉄打ち、木彫刻、陶芸、農業、謎のダンス(オイルトミー)
「あれ?勉強は??」と学生が不安になるような授業内容でした。
また、学生の思い出といえば「修学旅行」や「文化祭」だと思うのですが...
修学旅行とは名ばかりのハードな修行たち。行く前には誓約書的なものを書いた覚えもあります。
スイスではクライミングで死にかけ、チェコでは遭難し死にかけ、
フィンランドでは海に放り出され死にかけました。
修学旅行らしい夜の恋バナなどは一切なく、全員が明日を生きるための体力を温存するために寝る事を選んでいました。
↑これが修学旅行の思い出に聞こえますか?
こうして10歳でシュタイナー学校へ入学した私は、学校がハードモードすぎて秒で現実に引き戻され、妖精やオーラは一瞬で見なくなりました。
生命の危機を感じたことによる進化ですね笑。
そのまま覚醒したかのように急激にドイツ語が話せるようになり、授業の英語やフランス語などもできるようになりました。
一風変わったシュタイナー教育はいつの間にか居心地がよくなり、盛り沢山の学び・失敗・刺激をうけて、変人として社会で生きていく術を沢山学びました。
同時に絵はコミュニケーション手段ではなく、特技であり、趣味になって行きました。
▶出会い!日本へのきっかけ
高校3年生、シュタイナー教育もすっかり板につき。
友達も増えた私は、村でお買い物を楽しんでいました。
その日は天気が悪く、普段は入らない図書館にたまたま入ることに。
そこで出会ってしまいました...日本の「漫画」に!
それからというもの狂ったように漫画・アニメにハマり、
話せなかった日本語を独学で覚え、話せるようになります。
見事、日本が好きすぎる限界オタクが完成。
やがて日本語のSNSアカウントを作り、そこで趣味の絵を投稿し、
日本人に褒められる事が生きがいになっていきました。
なんとそのX(旧Twitter)のアカウント、今では1.3万人のフォロワーがいます。
そしていつしか趣味で関わるだけではなく、
「日本で仕事をしたい!」と強く決意し、
3ヶ月後には1人で日本に引っ越しました。
▶決断、この仕事・会社を選んだきっかけ
さて、勢いで来たはいいもの、
「今まで変人扱いされてきた私が社会で受け入れられるのは無理では?」
「そもそも何を基準に仕事って選ぶの?」といざ来てみると不安になっていました。
その頃、変人血筋の元となったと言っても過言ではない、母親の兄弟に会いました。
すると、びっくり。
少し見ない間に、変人扱いされていた2人は業界では知らない人がいないほどの有名人になっていたのです。
そして2人に言われました、
「自分が楽しいと思える方向に進んでいれば、なんとかなるで。」
...いや説得力すご。
チョロい私は、この一言で自分もなにか凄い人になれそうな気がして。
そこからクリエイティブに携われる会社のインターンや会社見学に行きまくりました。そしてとある会社に出会います。
いろんな大手を回りましたが、
どの会社よりも私は"人柄"を好きになれた会社でした。
「自分の成長の為に入社したい!」という気持ちと同時に「この人達と一緒に頑張りたい!」と思う事ができ、入社を決意しました。
▶入社して起きた私の"大きな変化"
入社後、私の中ではとても大きな変化がおきました。
それは、ずっと私を支えてくれた
"絵"を描かなくなったことです。
誤解をしてほしくはないのですが、決して「時間がないから」ではないです。
アイデンティティだった"絵"は言葉だったり、提案書類だったりデザインに変わっていて、それらが自身をアピールできる表現方法として入社してから増えたからだと思います。
シュタイナー学校で学んだ型にハマらない自由な考え方・発想力は、
"普通はそこまでしない"ようなアイデア探しをする行動力に繋がりました。
(都内中の店舗で聞き込みをしたり、商品を一式買い揃えて試用してみたり)
頭の中を整理するため、白いノートにまとめていた習慣は、調査・分析した取り組みをデザインや資料化することに活かされていて
「目の付け所が違うね!」や「その発想はなかった!」と言ってもらえることも。
実際の企画で活かされている所を見るととても嬉しく、認めてもらえている気がして、そこから自分の価値を見い出すことができました。
つまり今となっては私が絵に求めていた「承認欲求」や「存在意義」を周辺環境と仕事が満たしてくれている状態なんです。
過去の経験がすべて仕事に繋がっていて、凄く楽しいです。
そしてポンコツで不安いっぱいだった変人あやかは、
新卒時代に取れる賞を…なんと【全制覇】しました!
▼受賞歴
GRA 全体 大賞
GRA クリエイティブ部門 優勝
GMO アワード 準優勝
GMO グループ全体新卒研修2021 優勝
GMO アドパートナーズ 新卒研修2021 優勝
GMO Technology Bootcamp2021 企画部門 優勝
GMO Technology Bootcamp2021 全体 準優勝
GMO NIKKO B7Sワークショップ 準優勝
ADPo AWARD 受信回数 1位
あがり症で毎回プレゼン前に吐いていましたが、自分の得意不得意と向き合って、シュタイナーで学んだ「自分らしさ」を忘れずに日々精進。
今の私は、創作活動をしてX(旧Twitter)のフォロワーに見せるよりも
まだまだ自身の可能性を試したいと思えるようになりました。
▶最後に...
皆さんも、お仕事をする中で新鮮な発見、気づきを与えてくれる人や時間に出会ったことはありませんか?
きっとそれは貴重な事だと思うので、そんな仲間や場所は大切にしてほしいと思います。私も皆さんのそんな存在になれるよう、励んでまいります。
チェコで遭難した話など、詳しく知りたい方は気軽にお声がけください、
ちなみに少しの期間ですがドイツサーカスの空中ブランコしてましたよ(追い討ち情報がすごい)
では、ありがとうございました~!
おまけ:簡単にはなりますが私の生い立ち〜全制覇するまでを2本の記事にしていただけたのでお手すきの際に読んでいただけると嬉しいです!
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