まちがえないよう
「なんか不思議だよね、決めてるわけではないのに毎月こうやって会って話して、連絡も続いているって」
友人とお茶した駅までの帰り道、思わずぼそっと彼女にそう語りかけた。
正直なことを言うと、私は同世代との付き合いがあまり上手ではなく、仲良くなるのはたいてい歳の離れた方が多い。
だから同い歳の彼女と過ごす、この時間や関係性がこんなに心地よいことを不思議に思い、幼少期まで遡って思考を巡らせていた。
よくよく思い返せば、あまりグループに属さない子どもだった。
大学で教育心理学をかじった時、小学校高学年くらいになると閉鎖的な結束力の強い集団を作り、中学校に上がると、同じ思考傾向や同じ趣味といった、同質性や類似性を持つ集団を形成すると学んだことがある。
昨今はこの仲間関係の築き方も変化しているというけれど、確かに小学生の時にクラスにできたグループには独自のルールが多かったし、中学生の頃は好きなものが似ている人たちが集まっていたように思う。
だからクラスにも学年にも色んなグループが点在していたのに、私はそのどれにも属する気がなく、クラスの色んなグループを時と場合によって飄々と放浪するように、周りと関係を築いていた。
それは大人になった今でもあまり変わらない。
パンデミックからオンラインイベントに参加するようになって、社会にもあらゆる「コミュニティ」が点在していることを知ったし、そのコミュニティの一員になったりもした。
でも、どうも長続きしない。
飄々と違うところに行ってはまた飛び出して、を繰り返す。
そんな自分の行動パターンに気づくと、彼女との心地よさにも何だか納得した。
飄々と付かず離れずな関係を好む私にとって、彼女との距離感はとてもちょうどいい。
お互いたくさん話してきたから、「あれ好きそう」だとか、わかることも増えてきたけれど、彼女の知らない側面もたくさんあるし、彼女が知らない私の側面もたくさんある。
多くを語るときも聴く時もあるけれど、語らない時も聴かない時もある。
同じ方向を向いて踏ん張る時は、細かくコミュニケーションを取りながら確認していくけれど、全てを共有するわけでもない。
何だろう、そんな付かず離れずな、ふわふわとした雲のような関係性。
彼女の風みたいな人柄が、わたしにそう過ごすことを許してくれているような気もするから、彼女に会う度に私は感謝の気持ちが溢れかえるのだと思う。
幼い時、そんな飄々と私が漂った後、ふうっと一息ついて戻ってくる着地点は、家であり家族、そしてピアノを弾く時間、勉強する時間。
しかしひとり立ちして学生を離れてからは、その「戻ってくる場所」がわからなくて右往左往する日々に混乱し続けていた。
そんな混乱の日々を生きる中で、今の私にはひとつ、戻れる場所があった。
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