100年の流れを辿ってみる
今月、宮崎駿監督の新作映画が公開される。
事前の情報が全くないことにより、好奇心がよりくすぐられ、後もう少しの公開日が待ち遠しい。
その宮崎駿監督の過去作品の中で、私は『風立ちぬ』が好き。
その理由を説明しようにも、いまだにうまく言葉には出来ない。だが、ちょうど10年前、中学3年生の時に劇場で観てから、この物語が私の脳内から離れないことは確かだ。
この物語の中で、主人公とヒロインが初めて出逢うのは、関東大震災の日。
そのシーンを、借りてきたDVDで観ながら、脳裏に微かに残る記憶のかけらを拾い、この関東大震災は1923年の出来事であったことを思い出した。
そう、関東大震災は(日付は考慮しないものとすると)ちょうど今年から数えて100年前の出来事である。
100年前は、大正時代。100年前、人々は何を考え、感じ、悩み、生きてきたんだろう。そこには、電子機器もテレビもない、コピー機だってない。衣服も、まだまだ和服が慣れ親しまれていた時だ。
映画を観ながら、そんな思考を頭の中で巡らせる。100年前、そしてこの100年の間にどんな文化が生まれたり、下火になったりしてきたのだろうか。
そしてなんとなく気になって、1923年から更に100年先を辿ってみる。その1823年は、江戸時代。私の心の師のひとりである吉田松陰は1830年生まれだから、松陰すら生まれていない。幕末維新だって、ペリー来航だってその後だ。
そうやって振り返れば、江戸時代が終わり、日本が開国してから、200年経っていないことがわかる。これは江戸の約260年間よりも短い。
200年前には侍がいて、武士がいて、お殿様がいた。人々の身分だって区別されていた時で、日本から海外に行くことも大罪だった時。
食べるものも、着るものも、住む家も、人や世間の常識も善悪の感覚も、ルールも、大小あるといえど、200年前、100年前、そして今現在では、それぞれ違いがある。
そんな、今と昔の違いへの想像を、頭の中で風船のように膨らませていく。そうすると、常識や評価、善悪の感覚すら、その時代の背景と、世相の流れ、そこにある生活の感覚によって変化しているんだと感じた。
この200年の間、人はどう生き、何を考え、感じ、苦悩し、闘い、力を尽くして生きてきたのだろうか。その中にどんな文化が生まれ、廃れ、続き、発展してきたのだろうか。
そんな壮大な年数へ関心を寄せる。
なのにも関わらず、ここ数年の私の中には、変わらない何かを求め続けた自分がいた。
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