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母の待つ里

著書 浅田次郎
新潮文庫

質量のある小説だった。

あらすじなどの予備知識なく読んだ人には共感してもらえると思うのが、まず第一章の最後での衝撃。

里で待つ母は実の母ではなく、「ふるさと」を提供するカード会社のサービスで雇われたおばあさんだった。

里帰りした子が家だけでなく母親の名前まで忘れてしまうのには違和感を感じていたけど、もし幼いときに離れてしまったのならあり得なくもないのかなあなんて思った。

田舎の景色や暖かみの表現はとても美しく、「母」と「息子」のやり取りもしばらく会っていない気まずさが少しずつ和らいでいく過程が自然で微笑ましいなあと思いながら読んでいた。

ただのサービス。
それでも「母役」のちよさんが都会からのお客一人一人を自分の子供だとして愛したことに嘘はなく、その「子供達」は救われていた。久しぶりに帰ってきた子供の世話をし、時間の許す限り一緒にいて、離れている間の無事を祈る。まさしく「ふるさとの母」だった。

物語を通して、都会の「不自然」と田舎「自然」の対比が強く印象付けられる。

母がかくも愛された理由は、自然であったから。そして子らがかくも母を愛した理由は、それぞれが不自然であるから。 人口の偏在や地域格差などという社会問題とはさほどかかわりなく、繁栄すなわち幸福と規定した原理的な過誤によって、多くの人々が自然を失い、不自然な生活をしなければならなくなった。 そういう話だったのだ、と古賀夏生は得心した。

p299


私は田舎生まれで、高校卒業後に一年だけ大阪の中心部に住んでいたことがあるのだがその窮屈さには参ったのをよく覚えている。真夜中に落ち着かなくなって淀川沿いまで自転車を走らせたこともあったほど。
都心育ちでいわゆるふるさとをもたない人々にとってはこれが普通なのかと当時の私にとってはかなり衝撃的だった。私には到底自然が無い日常が受け入れられなかった。

自然に比較的なれている私でさえ美しい景色を見れば感動するのだから、「不自然」に住む人々にとってのそれは形容しがたいほどに大きいものだろう。

自分は造りものの色と形の中で生きてきたのだと、古賀夏生は知った。目に入る色という色はすべて人工の着彩で、形という形もみな人間が設計した造形物なのに、何となく天然の風景のように錯誤して、時には美しいとすら思って暮らしてきた。 だが本物の天然はまるでちがう。かくも堂々として瑕瑾のひとつもなく、そして揺るぎなく調和している。

p210


科学の発展とともに何もかもが便利になる代わり、人々は自然を失いより孤独に、より不自然になっていく。
たぶんこの時代の流れは変わらない。
悲しくても止めることはきっとできない。


それでもなにか、できることは無いのかと探したくなる。



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