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おじいちゃん、インパール作戦について教えて欲しいんだ。

今年も大阪に夏が来た。

近鉄電車に揺られ上本町駅で降りる。
全身にまとわりつく湿気とアスファルトから照り返す日差しが、東京のそれとは一味違うことを教えてくれる。

私は一人、墓花を手にさげながら連綿と続く先祖たち、そしてインパールの地で散った祖父の兄に思いを馳せていた。

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おじいちゃんの話を聞かせて欲しい

東京のスタートアップでせわしく過ごす日々の中、ずっと先延ばしにしていたことがあった。私はふと思い立ち、それについて大阪に住む祖父(93歳)に電話をかける。

「おじいちゃん、今度大阪にゆっくり遊びに行ける時間ができたんだ。そこで一つ、お願いがあるんやけど…」

「…なるほど。あんたそれは、言うたらファミリーヒストリーやな。なんでも話したるさかい、来なはれや。」

祖父は話が早かった。
私は休職しているこのタイミングを利用して、祖父の人生、そして戦争で亡くなった祖父の兄についてインタビューをしようと思っていたのだった。幸いにも祖父母が健在であるいま、自分が存在するルーツに関して腰を据えて書き残したかったのである。

「僕らの青春時代は、グレーやった。」

「何から話そかね。時系列がええやろう」

祖父は戦時下から戦後の流れをゆっくりと語り始める。私はICレコーダーのスイッチを静かに入れた。

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ーーおじいちゃんの生まれは?家族は?
「ぼくは、昭和4年1月5日生まれ。3人兄弟の末っ子や。親父は日ノ本足袋いう足袋屋で営業をやってたな。実直な人やった。まあ、いわゆる標準家庭やな。けどな、突然親父が倒れてもうて、それから20数年は療養生活や。ちなみにその頃は長屋に住んどっててな、隣に上方落語の桂春団治が住んでたんやで。」

ーー学生時代については?
「小学校は昭和10年から。6年通うて、そのあと昭和16年に明星商業学校に入った。今の大阪明星高校やな。フランスのセントマリア会がやってるミッションスクールでな、フランス式の鱗みたいな屋根の校舎があったんやで。空襲で全部焼けてもうたけどな。」

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ーー戦争はおじいちゃんの生活にどう影響したの?
「16歳(昭和20年)の時に戦局が悪うなって、いよいよ勤労動員や。せやから本来5年通う中学校を4年で卒業させられたわ。ほんで、松下造船の木造船の隙間にタワシの原料になる棕櫚(しゅろ)を挟む仕事させられたりな。いま考えたらアホやろ。棕櫚を木造船に挟んで穴塞ぎしとるような状況でアメリカに勝てるはずないわな。」

ーー中学卒業から終戦までの間は何をしてたの?
「中学校を卒業した後は、東京の築地にある海軍経理学校に受かってん。ほんで、上京するまでに1年くらい時間があってな、その間は滋賀に疎開をして小学校の助教をやったりしたわ。なんもしてへんと、徴兵されるさかい。」

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「あん時はな、あぜ道を生徒と歩いてたら後ろからアメリカの飛行機が飛んできおって、バババババとな、機関銃を撃ちよるねん。脇の田んぼに逃げて命拾いしたわ。ほんで、入学の準備をしてる間に終戦や。親父が倒れてたこともあるさかい、大学には行かずに働き始めたな。僕らの青春時代は、グレーやったんや。アンタらはバラ色やで。」

自分の生い立ちを淡々と話す祖父はおそらくこの日、私のために事前準備をしてくれていたのだろう。祖父の手元には真新しい戸籍謄本があった。

兄貴はインパール作戦で戦死した

今回、祖父自身の戦争体験を聞くと同時に、もう一つ必ず聞いておきたいことがあった。それは、祖父の兄(大伯父)についてである。

「あんた生まれたときな、亡くなったお兄さんに顔が似てると思ったんや」

14歳の時に祖父母から言われたこの一言をきっかけに、ずっと大伯父のことが気になって仕方がないまま私は歳を重ねていた。

祖父より11歳年上の大伯父はインパール作戦によってビルマ(現ミャンマー)で亡くなった。その事実のみ知っていたが、一体どんな人だったのだろうか。顔以外に共通点はないのだろうか。

14歳の私は「なんとなく気になるが、別に急いで掘り下げるほどでもない」と思っていた。しかし歳を重ねるにつれて得も言われぬ焦りが強く押し寄せてくる。「いつか教えてくれる人がいなくなるかもしれない」と。

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私の大伯父(写真左)

インパール作戦自体については私が細かく説明するまでもなく、様々な文献やWikiを参照していただいたほうが良いと思うが概略を簡単に記す。

インパール作戦とは第二次世界大戦において、1944年の3月〜7月まで実施されたインド北東部の都市インパールの攻略を目指した作戦である。インパールは日本と対立していた連合国軍(主にイギリス、アメリカ、ソ連)が中華民国の蒋介石政権を支援する輸送路(援蒋ルート)であり、そこを遮断することが目的だった。その目的自体は合理的と言われることもある。

しかし、作戦の実行が悲惨であった。司令官が精神論を重視し兵站不足にも関わらず強行に強行を重ねて、日本軍のほとんどが戦死・病死をしていった。

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結果的にインパールを攻略できないまま七月三日まで作戦を続けた。長期化するにつれ、食糧、物資などが欠乏し、三師団だけで四万八九〇〇人中三万六二四五人という実に損耗率七四%もの多くの戦死者、餓死者、負傷者、行方不明者を出し、歴史的敗北を喫した。インパール作戦は、補給線を軽視した杜撰で無謀な作戦であり、死の作戦とも呼ばれる悲惨な結果を残したのである。
火野葦平,渡辺考,増田周子. インパール作戦従軍記葦平「従軍手帖」全文翻刻 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.6552-6557). Kindle 版.から引用


そのため、インパール作戦は「無謀な作戦」の代名詞として使われた。2020オリンピック・パラリンピックの際にも政府を揶揄する言葉として「インパール」の単語がTwitter上でも散見されたのは記憶に新しい。

そんな無謀な作戦になぜ、大伯父は行ったのだろうか。ビルマのどこでどんな死に方をしたのだろうか。日本を発つ時、何を思っていたのだろうか。

私にはそれを知る権利もあるし、書き残す使命もあるという思いも勝手に抱きながら、冒頭の電話を祖父にかけていた。

兄貴はな、“はしかい人”やった

そう祖父は語り出す。

ーーおじいちゃん、「はしかい」ってどういう意味?
「せやな、すばしっこく、抜け目ない、賢いみたいな意味やな。兄貴はな、高津中学校(現大阪府立高津高校)から彦根高等商業学校(現滋賀大学)へ進学したんやで。男気のある人でな、なんでもスポーツをやっとったわ。水泳もやれば、野球もやる。三菱重工の野球部でキャッチャーをやっとったわ。喧嘩もやる人でな、自分で喧嘩を売っておいて、他の人間に戦わせるような人やったわ!」

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ーー戦争についてはどういう考えの人だったの?
「兄貴はな、名古屋発動機製作所(現三菱重工)で零戦の設計をしてたんや。軍に忠誠心があってな、戦争が好きやった。まあせやけどな、あの時はそういう思想になるよう教育をされてたんや。ほんで、彦根高商を卒業する時には将校になれると言われておったわ。いわゆる幹部候補生やな。陸軍甲種合格で、ホンマなら南京の士官学校に入ってたわ。せやけど現場で指揮できる人が足らんかったんやろな。インパールの最前線へ行きよるわ。デキる人間も悲劇やな。愚かであれば足手纏いやから連れてかれんわ。」

インパール作戦は大きく3つの師団に分かれて侵攻した作戦である。
第31師団(烈)・第15師団(祭)・第33師団(弓)。このうち、大伯父は「第15師団(祭)」に所属しインパールを目指した。

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火野葦平,渡辺考,増田周子. インパール作戦従軍記葦平「従軍手帖」全文翻刻 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.109). Kindle 版.より引用

ーーほんで、おじいちゃん、日本を発つ時のお兄さんはどんな様子だったの?
「なんや、既に隊列の外に立って指揮を取っていたらしいわ。あと、三ツ矢サイダーやな。母親が最後に港へ見送りに行った暑い夏の日。『喉が渇いたから近くに三ツ矢サイダーは売ってないか?売ってたら買うてきて欲しい』と言うたらしいんや。せやけどな、港なんて端っこやから三ツ矢サイダーなんて売ってへんわ。ただ、それだけが母親は心残りでずっと死ぬまで三ツ矢サイダーのことを言うてた。せやから、月命日の15日には三ツ矢サイダーを今も供えるんやで。」

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引用:https://zatsuneta.com/img/103284_01.jpg

ーービルマへ向かった後は、連絡は取れていたの?
「一度だけ、手紙が届いたらしいわ。そこにはな、『自分が作ってきた零戦が全然こっちには来ない。どないなってるんや』のようなことが書かれていたんや。兄貴は零戦の設計士としての誇りと気概があったんやろな。せやけど、ようそんな内容の手紙がちゃんと届いたわな。やっぱり兄貴はそれなりに権限があったんとちゃうんかな」

この時すでに大伯父はインパール作戦の計画の杜撰さ、無謀さを身をもって感じていたのだろう。同時に零戦設計士として、上層部への憤りも持っていたに違いない。

ーーインパール作戦は骨も帰ってこないような悲惨な作戦やろ。最期はどうなったの?
「それがな、骨が帰ってきてん。兄貴はな、インパールの手前にあるフミネと言う場所の野戦病院へ運ばれてたんや。脚気とマラリアでな。その時の軍医がたまたま隣村出身の人で、『なんでこんな前線に幹部候補生がおんねんと。なんで南京の士官学校に行ってへんのや』と思ったらしいんや。ほいでな、兄貴が死んだ後にそのお医者さんが気を利かせて、兄貴の指だけ切って、焼いて、その骨を大阪に持って帰ってきてくれたんや。」

そう語る祖父は自室から一冊の日記帳を持ち出してくれた。大伯父の生前の日記である。下記、一部抜粋していき、当時の生活や心境を敬意を持って覗いていきたいと思う。

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大伯父の日記は、1941年1月1日から12月31日までの日常が記されている。

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1月4日(右ページ)正月は花園ラグビー場へ全国高校ラグビー大会を観戦。自分の姪孫(私)が大学までラグビーをやることなどこの時は想像もしなかっただろう。

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3月20日(左ページ) 弟(私の祖父)の中学入試合格を祈る大伯父。

人生初めての生存競争に入りて、頑張りおることであらう。無事入学許可を祈るのみ。

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3月28日(左ページ) 弟(私の祖父)の中学合格の電報に喜ぶ大伯父。だが、冒頭の言葉が大伯父の戦争への本心が垣間見える。

家より電報くる。應召かと青くなる。心構が大切と一層痛感する。

やはり誰も心から戦争に行きたいと思っていた人などいないのではないか。行かざる状況になって、自分の本心を殺し、騙し、未練を残し、出兵したのではないか。
こうも考える。もしかしたら、出兵することは本望で、別の意味で青くなったのかもしれない。しかし、現代を生きる私の感覚からすれば、そうは受け取れなかった。

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12月8日(左ページ) 第二次世界大戦開戦。もう、覚悟が決まっているのであろう。大伯父さん、その涙は、決意のほかに何か意味はあったの?

あの英米の悪らつなる暴政。泣いて剱を執る。ああ感激。
頑張ろう。涙とめどもなし。頑張ろう。進軍しよう。
奉公袋の内容を改め、晴らす。準備はよし。

最前線に行き、現場の指揮をとりながら最期を遂げた大伯父。祖父の言う通り要領が良く、優秀な方だったのだろう。顔が似ていると言うだけでも私は嬉しいし、誇りに思う。

文化人は戦争に利用された

今回、祖父にインタビューをする上で、併せてインパール作戦の史実も可能な限り調べた。その中で、一つ気になったことがある。それは文化人(ここでは芸術家や画家、作家などの表現者を指す)が国家のプロパガンダに利用されていたことだ。インパール作戦においては前述の参考文献における芥川賞作家の火野葦平、火野と共に従軍した画家の向井潤吉、NHK連続テレビ小説「エール」のモデルにもなった作曲家・古関裕而などが従軍していた。

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戦場でメモを取る火野葦平
引用:
http://zkdf.net/2019/program/program-95/

戦後日本の文化創造や復興を担った文化人が当時は軍事・政治利用されていたのである。当然、彼らの作品が史実を後世に伝えることに繋がっているからこそ、我々は擬似体験ができ、同じ過ちを繰り返すまいと誓うことができている。一方で、当時の人々は政府・軍部の都合の良い方向へ扇動されていたのも事実。

徴兵された文化人の戦後作品に「悔恨」と言う色合いが大きく滲むことが多いことから見ても、戦時下での操作された作品作りが、その後の彼らの表現内容に与えた影響は大きい。私も表現者の端くれとして、この表現は本当に自分の正義を貫いているか?他人の手のひらで踊らされていないか?と自戒の念を込めて日頃から意識をしていきたい。

私たちは指一本で語り継げる世代

先日、広島原爆の日にこんなツイートをした。

教科書や文献によって知ることができる戦争は言うなれば感情を削ぎ落とした史実である。その連続が座学的な歴史だ。あえて「座学的な」と書いたのはそこに生きた人間のリアルなエピソード、感情、ストーリーが無いことで単なる事実の整理に留まっていることが多いと考えるからである。

はて。

結局、何が言いたいか。それは、現代人(とりわけデジタルネイティブ世代 )は身近に戦争を知る人がいるならば今のうちに話を聞きに行こう、そして、聞くだけで終わらないでその親指でスマホを動かそう、ということだ。

noteでもTwitterでもなんでもいい。書いて、残して、発信すればいい。と私は思う。1行でも構わない。至極私的なものでも構わない。いいね!がつかなくても構わない。教科書の焼き増しなんていらないのだ。戦争を知らない我々でも共感・共鳴できる史実は、未来への行動に繋がりやすいと信じている。

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そして、その私的なストーリーが小さな星々だとすれば、それらがインターネットという銀河で繋ぎ合わさり、歴史と言う大きな星座になる。もしかしたら、あなたの祖父と私の大伯父は繋がるかもしれない。孫たちが繋がり、何かが見えてくるかもしれない。

自由と平和のために僕らの強みを使わない手はない。
僕らが時代をグレーにしてはいけない。

最後に

おじいちゃん、貴重な話を聞かせてくれてありがとう。
大伯父さん、最後まで生き抜いて下さりありがとうございます。
拙いながらも、noteに記録を残しました。

(追記:2023.03.21)
このnoteを書いた約7ヶ月後に祖父が天に召された。それは唐突で予兆が無い他界であった。しかしいま思えば祖父も私も「その時」が迫っていることをお互い気づいていたのかもしれない。

祖父は他界するまでの2年間で「ええ大人やったらええコートの一枚持っときなはれ」と言いながら自分のコートを私に譲り、「これはおじいちゃんがスイスへ海外出張に行ったときに買うた時計や」と言いながら金の時計を私に譲った。そして亡くなる直前には「ワシが死んだらヒロ(私)に骨を拾ってくれと伝えてくれ。」と私の母に言い残した。「アホなこといいなや」と皆、取り合わなかったが祖父は何かを感じていたのだろう。

私は私であの夏、何かに駆られるようにこのnoteを書き留めた。いつかやってくるその時がこんなにも早いとは思っていなかったが今しかないという気持ちがやはり当時あったように思う。

1周忌を迎えたこのタイミングで改めてこのnoteを読み直して亡き祖父を、そして亡き大伯父を偲ぶのであった。

※『ピンク髪とヒョウ柄で、僕は今日も東京にいる。』は四十九日の時に書いたエッセイである。

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