誰かにとっての”ちょうどいい捉え方”を守るために
「そんなことないよ。
病気だなんて、思わなくていいんだよ」
話のきっかけも、流れも覚えていないのに、この言葉だけ覚えている。
まったく悪気がなくて、あまりにもまっすぐで、私は何も答えられなかった。
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私はトラウマの治療が目的で、通院と、月に2回カウンセリングを受けている。大げさに捉えていることもなくて、ただカウンセリングの後はすごく安定するから、運動する感覚で続けている。
カウンセリングを受ける中で、私に起きた変化は大きく分けて2つあると思っていて。
一つは、トラウマの存在を知り、認められるようになったこと。
二つ目は、その”トラウマがある事実”になんの感情も持たなくなってきたこと。
「なんの感情も持たなくなってきた」という点でしっかり区別したいのは、経験に対しての感情ではなくて、”その経験を持つ自分”に対する感情。
ポジティブな感情を持つことはないかもしれないけど、ネガティブな感情を持つことも少なくなってきた。 少なくなってきた、と書いているのは、もちろん完全にそう思えてるわけではない。
ただ、それを理由に何かを否定も肯定もすることはないし、ただ、自分の一面でしかないという感覚に近づいている。
それはきっと、カウンセリングの中で過去の自分をどんどん癒すことができているからだと思う。
「こんな経験あったよね〜、誰にも話さなかったけど、こんな気持ちだったんだよね。」
っていう感じで、ただそのときの感情を認めてあげるんだけど、不思議なことにどんどん解放されている感覚がある。
認識すればするほど、今の自分はもうその過去の中を生きていないことにも安心できる。学んだからこそ今は、違う選択を取れるわけで。
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話は戻って、そんな私の状態を伝えたときに言ってくれた友人の言葉。
正直な感想としては、「トラウマ」のイメージって本当に多様なんだろうな、ということ。
そもそも、何かに対するイメージや考えなんて、人によって違って当然。だから今回の場合も、「そんなことあるよ」と伝えたいわけでもない。
ただ、どんな事実に対しても、自分にとっての”ちょうどいい捉え方” がきっとあるんじゃないかな、と思った。
その捉え方をする理由は、自分を納得させるためなのかもしれないし、愛するためなのかもしれない。いろんな背景があると思う。
トラウマ自体、いろんなものがあるし、捉え方ももちろん違う。
私にとっての、ちょうどいい捉え方
私の場合は、トラウマを病気と思いたいわけでも、病気じゃないと思いたいわけでもない。今すぐ乗り越えたいものでも、ずっと一緒に生きていきたいものでもない。
良いか悪い、の2択じゃないものに感じている。
「ただそれを認めて、なんの感情も持たない」この捉え方が、大げさすぎなくて、焦りも感じなくて、ピタってフィットする。
ただ、自分にとってはちょうどいいのだ。
この話を書きながら思い出したのが、学生のときにありがちな 「太ってきたんだよね〜」という発言に対して、「そんなことないよ〜」っていう会話。
いろんな場面で起きることだと思うし、私も無意識にやってしまっていると思う。偉そうに言える立場でもないし、だからこそこうやって書き留めておこう。
捉え方における”ちょうどいい”は、自分のものも、誰かのものも、そっと寄り添いながら、しっかり守っていきたいと思う。