不登校の息子たちとの対話 【テーマ:境界線について】
「境界線」や「課題の分離」は不登校の息子たちと対話をする時に親子で理解が必要なテーマだなと思っている。
ちょうど少し前に「境界線」は我が家の対話のテーマになっていて、何度か息子たちと話し合った。
それは私の長年の悩みや痛みからの疑問、相談から始まった。
不登校の子どもを受容し、見守るだけでいいのか?
長男が学校に行けなくなった時、自分の怖れや不安から長男の気持ちを受容的に聞いたり、辛さや傷つきに寄り添えなかった。
そればかりかたくさん傷つけてしまった。
そこが私の痛みと深い後悔になっている。
そこで長男に寄り添うと決めた時に休むことを受け入れた。
そしていくつかの相談につながった時に、全てを受容し、口を出さず、見守ることが大事と言われることが多かった。
また何冊か読んだ本も同じように書かれていた。
そこでゲームや勉強しないこと、生活を受容し、口を出さず、見守った。
それは言い訳だったかもしれないと今では思っている。
向き合うと傷つけてしまうことへの怖れから、長男と向き合うのではなく、楽しい会話をすることを選んだ
それは元気になるためには必要だったとは思っている。
でも片輪が外れていた。
足りなかったと強く感じている。
でもそこで自分はこのままで本当に良いのかという気持ちや学校に行かないとしても、できることは在ると思う気持ちが在った。
高校進学の時に突然向き合うことになる
それを表現しないまま、長男と対話しないまま受験の年になり、突然進学について話し合うことになってしまった。
結局長男が進学を選択し、大学まで自らの意思で進んだ。
でも大学の途中で、成績もかなりよかったのに動けなくなってしまった。
ここにはコロナも関わっているから一概にそれだけのせいとは言えないかもしれない。
けれど私は長男が学校で感じてきた違和感、しんどさ、辛さを聞いてこなかったことやそれをどう捉えるのかを対話してこなかったことで、放置されてしまった何かがあると感じている。
また次男が中学でいじめから不登校になった時も同じ対応をしてしまった。
長男が高校に通って、いろいろな体験をしていた時だったから、長男の時のように見守り、受容し、楽しい関わりをしていたら動き出せると信じていた。
あの時長男が自分の意思や努力で動き出しただけだったのに、見守る対応が良かったんだと勘違いしていた。
本当に何もわかっていなかった。
彼らが何を感じ、傷つき、一人で何を悩んでいたのか。
知ろうともしていなかった。
過干渉は良くないという言い訳をして、向き合ってこなかった。
でも次男が高校受験の時に受験したいのに怖くて説明会の当日に動けなくなるのを見て、愕然とした。
すごくショックだったし、なぜ高校に行きたいというのに説明会に行けないのか理解できなかった。
でも進学しないことを決めて、その後ジムに通うようになった時と1年続けたジムをやめる時の対話やその他の対話から彼が感じてきたことの大きさ、プレッシャーがやっとわかってきた。
自分の望むことができないほどに怖さを感じていたこと。
それがどのくらい彼にのしかかっているかのか。
望むことができないことでどれだけ絶望を感じているか。
今彼はやっぱり自分にはこの世界と関わっていくのは無理なんだと感じている。
長男も同じだ。
それがどれだけ苦しいのか。
でもあまりにも辛いから感情を切っている部分もあるなとも対話をしていて感じる。
が
もっと前から長男や次男が抱えていることや大切にしたいことを問いかけ、そこで感じる恐怖を受け止め、彼らも感じられる対話をしていたら。
もっと彼らが望むやり方、道、求めていることを模索できたとしたら。
その後の対話から感じ、とても後悔している。
子どもが本当に望んでいることは何だろう?
また対話をするようになって、長男に「長男と次男の受験になる前に楽しい話題だけではなく、今のようにいろいろな話しをしたら良かったと後悔している」と伝えた。
その時に「母は極端なんだよ。」と漏らしたことから、長男ももっと聞いてもらいたかったことが在るんだと感じた。
私も対話チャレンジを重ね、いろいろな気づきが在る中で
「評価や非難のない対話がわたし達親子には必要だったと痛感している。
正しさや結論を求めず、それぞれが感じることを語り合うことで、自分を理解し、お互いをわかろうとし、一人一人違うことを理解する。
そして自分の感情や価値観が大切なこと、
相手にも感じていることや大切にしたいことが在って、
そこから自分の価値観で選択することを尊重することの大切さを学んでいくことがわたし達親子に必要だなと感じている。
何より子ども達に必要だったのは自己理解だったんだと思っている。
自分が大切にしたいこと
自分に合ったやり方や内容
自分のブロックになっていること(傷や痛み、信念)
ここを親子で理解するために対話がとても力になると感じている。
自分が大切にしたいことや価値観、自分に合ったやり方はアクセルになり、
ブロックはブレーキになる。
一人では見にいくことが難しいこともどんな気持ちも在っていいと支えてくれる人が居たら見に行ける可能性は高くなる。
傷が深くて、まだ難しい時期もあると思う。だからとても難しいけれど、対話でき理解していくことはとても力になると思っている。
対話する時に大切な「境界線」について息子たちとの対話
対話はとてもちからになるけれど、親子の対話では難しさをかんじることがいくつかある。
そこで先日息子たちに私が今抱えている難しさを相談してみた。
「私は自分の感じることや大切にしたいことを表現したい。そしてあなたたちの感じることや大切にしたいことを表現してもらいたいと思っている。
お互いが表現し、一旦受け取る。
そこで自分の感じたことにつながり自分の選択をして、それを共に尊重することを望んでいる。
でもそこに私の心配がある。
私は親で大人だからどうしても子どものあなたたちには圧(プレッシャー)がかかってしまう気がする。
それがとても嫌だと思っているし、どうやったらそこを乗り越えられるのかを考えてきた。
でもまだどうしたら良いかわからないから、理解と創造を助けて欲しいと。
私の願いはあなたたち一人一人が感じることや大切にしたいことを尊重したいし、 あなたたちにも自分の感 じることや大切にしたいことを尊重して欲しいと願っている。
私が正しいわけではないし、今まで「境界線」や「課題の分離」がわかっていなかったし、許可が無かったから、「境界線」や「課題の分離」がとても難しい。
間違ってしまうかもしれない。
だから違うと思った時は伝えて欲しいし、それぞれが感じることを共有したい。
押しつけたり、否定したくないと強く願っているからサポートが欲しいと伝えた。
今の我が家の「境界線」の定義
そこでいろいろ対話をして、今の我が家の「境界線」の定義を確かめ合った。
自分の大切にしたいことを表現すること。
それは否定や押しつけではないことを理解すること。
一旦聞き、自分の価値観で選択したり、表現することを尊重すること。
今のところここが我が家の境界線の定義。
大切なことや感情が揺れる時は境界線を踏み込みやすい
そして「境界線」の対話をしていた何日かの間に次男と三男と私のお互いが大切にしたいことがぶつかる場面に出くわした。
そこでそんな簡単ではないことも痛感した。
大切にしたい度合が高まるほど、感情が溢れる。
それが対立や分離につながることを今までも何度も経験してきた。
今回もそれが起きた。
結局その場は中途半端のまま離れ、数時間たって、もう一度その時に感じていたことを話してみようと伝えて、語り合った。
ここは今までの対話から学んできたこと。
お互いに感情的になった時に、冷静になる時間をおく。
それは相手に感情をぶつけてもお互いに傷つき、後悔するだけと散々学んできたから。
また本当に伝えたいのはその時の感情の根っこにある願いや嘆きだと痛感してきたから。
そこで落ち着いてからお互いが大切にしたいことを表現し、わかろうとして聞いた。
そこでわかったことは
やっぱり自分と違うことを大切にしたいと言われた時に否定や押しつけと感じる。
また表現したほうはわかってもらう前に決めつけられたと感じていたこともわかった。
本当に聞くって難しいね…ほんとうに。
対話の中で境界線をひくことの難しさを理解し、助け合えたらいいな
でも落ち着いて話した後に、今回のことで気づいた事も共有した。
感情が溢れた時に一旦距離と時間を置き、まず自分の感じていることを落ち着いて感じてみること。
何を大切にしたかったのか。相手は何が大切にされていないと感じたのかを明かしあうこと。
感情的になることの根っこにはたくさんの体験から感じてきたこうあるべきなどの信念があり、そこには痛みや傷つきの体験がある場合も多く、その痛みの再生と感じ、抵抗したくなること。
感情が溢れ、相手をわかろうとして聴くことを難しくしてしまう。
でも「自分だけでなく相手も大切にしたい。そのくらい相手が大切な存在なんだ」という思いがそれを乗り越える力になると感じる。
そして相手に「「自分だけでなくあなたも大切にしたい。そのくらいあなたが大切な存在なんだ。だからぶつかった時もわかりたいし、いろいろな難しさを乗り越えていきたい。」と伝えることが力になるのではないだろうかと思っている。
そしてお互いに難しさに挑む仲間として、理解し、支え合えたらそれは大きな力になると思う。
そんな関係であることを願っている。
「境界線」とても難しくて、一生取り組むテーマかもしれないね。
これからも体験からぶつかり、気づき、学んでいくと思う。
でも大切な人と自分を尊重する為に向き合っていきたいテーマだなと思っている。