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あの日から、たしかに何かが

瀬尾夏美さんの「声の地層」を読んだ後、導かれるようにして東北へ旅をした日々の記録。

8/21

石巻駅で友人と合流し、車で気仙沼へ向かう。彼女は北海道でのフォルケホイスコーレの思い出をとても楽しそうに話してくれた。地元の有名な居酒屋で魚をこれでもかと食べ、夜のドライブへ向かう。夜道を運転していると、きらきら光る港と神社を見つけて、散歩をしてみる。彼女とわたしはどちらも怖がりなのに、一緒に旅をするときはいつも夜道をドライブし、散歩して、お互いの声と動きにさらにビビる、というのを繰り返している。今日も相変わらず、夜道をふたりで飛び跳ね、叫び、笑いこけた。ああ、なんて素敵な夜。

車に乗再び乗り込み、ドライブをしながら彼女の語りを聞く。彼女は北海道で話したかったけれど、どうしても話せなかったのだと語る。
彼女に、「わたしはあなたと過ごす時間や対話に何度も救われてきた。あなたと話すとこれからも生きていける、いつもそう思う」と思わず伝える。彼女は「ひとりでもそう思ってくれる人がいたら、きっと充分なんだろうな」と伝えてくれる。

わたしは彼女が大好きで、それを彼女にそのまま伝えられる言葉をずっと見つけられない。枠に収まるものではないから、でも、そのままで彼女に届いたらないいなと思う。彼女は生を前へ推し進める力を持っていて、しなやかでやさしいエネルギーを放っている人だ。藤本和子さんの本「ブルースだってただの唄」に出てくる、強くしなやかな黒人女性たちに彼女はどこか似ている。この社会の中で、苦しみ、傷つき、もがきながらも生を前へ進める、その悦びと共にある彼女たちに。わたしは彼女に生き方を学んでいる気がする。生き方、というのは知識によってもたらされるものではなく、何かもっと精神的なもので。「わたしたちはいつも一緒に精神世界を旅してるよね」と彼女は笑いながら言った。

ゲストハウスに帰って、その日のゲストたちとオーナーさんのお子さんと一緒にゲームをして夜まで盛り上がった。こういう一日がきっと私を生かしている。

8/22

朝起きて、ゲストハウスで出会った、自転車で日本一周をしている青年と一緒に陸前高田へ向かう。漁師さん御用達の鶴亀食堂でおいしい焼魚定食を食べ、記念館へ向かった。記念館には行政やハード面で震災時にどう人が動いたかが綴られていた。

鶴亀食堂の焼魚定食


車で約2時間かけ大槌町まで向かう。岩手は山が多く、トンネルが何個も現れる単調なバイパスを車で飛ばしていく。友人のつながりで、大槌町でスクールソーシャルワーカーをしている方と語り部の方につないでもらい、話を聞いた。語り部の方は丁寧に説明をしてくれ、いろんな場所へ連れて行ってくれた。

「震災から10年以上経つというけれど、それは数の話で。多くの人にとって、震災はまだ終わっていない」

大槌町は、津波と共に火災が多く発生したため、多くの家屋は焼け落ちて残っていない。そのため、行方不明者がとても多い。遺体を見つけられず、家族や友人が亡くなったことを受け入れることは、また違った苦しみを生むと彼女は言う。

高齢者の方がとても多い大槌町。「もう歳だから震災で亡くなってもいい」という高齢者の方も多いのだそうだが、そういう彼らに彼女たちはこう伝える。

「ご家族にどこにあるか分からない、津波にもまれたご遺体を探させたいですか」「そういうトラウマをご家族に残したいですか」

元大槌町役場があった場所には何も残っていない。空虚な更地は心をざわざわさせる。「まだ誰の弔いもできてないよ」という声が聞こえるようだった。町民の意見が割れて、この場所をどうするかをまだ決められないのだという。人によってどう被災したか、どう心の傷をおっているのかは異なっている。そこからどれだけの時間をかけて、どう癒えていくのか、どう生きていくのかも。

津波の被害があった土地でも、元あった場所に家を建てたいという人がとても多いみたいだ。

「わたしたちからしたら、なんでわざわざ津波が来るところに家を建てるんだろうと思うかもしれないけれど、ここに人とのつながりも、生きてきた歴史も全てがあるのだから、自分のコミュニティがあった場所に住み続けたいと思うのは自然だよなあ」

実際に津波が押し寄せた場所に立った時、自分の圧倒的な無力さを感じた。みんなが逃げたという高台へ行き、町を見つめる。町の家はほとんどが新築で、防波堤は高く、震災の爪痕が残っていることを感じさせる。

語り部さんに連れられ水門をくぐり、海へ向かう。水門を超えた瞬間、空と海、山で視界がいっぱいになった。

「いろいろあった町だけど、それでもこの景色を見ると、やっぱりここに住みたいなと思うんだよね」

リアス式海岸は、入り組んでいてどちらが海なのか分からない。それでも、だからこそ養分が多くておいしい魚がとれる。開けられていないコーヒー缶が2缶、岩辺に置いてあった。

友人のソーシャルワーカーさんの家族と一緒に夜ご飯を食べる。海の幸で溢れた磯ラーメン。元気な2人の息子さんと静かで落ち着いた2人の家族と一緒にいると、どこか安心する。
彼らは震災後に東北に移り住み、支援を続けながらずっとこの土地で暮らしてきた。人生とはタイミングやエネルギーに導かれるようにして、続いていくものなのかもしれないと思う。きっと、わたしにもそうやって生きていく力がある。

車を運転して石巻まで帰り、疲れすぎていてゲストハウスでお風呂に入った後、溶けるように眠りについた。

8/23

朝。コーヒーチケットをもらえたのでゲストハウス内のカフェでカフェラテを頼む。店員さんがとても素敵な方で、彼は震災後に両親が支援関係で東北へ移り住んだのをきっかけに、移住して住んでいるのだと教えてくれる。
カフェラテを飲みながら、友人と震災時に大切な人とつながれる、守れる制度にいないことの不安や、「小山さんノート」について話した。

車で三陸の土地を走りながら、ここがどれだけ海と山に囲まれた土地なのか、複雑で入り組んだ土地なのかを感じる。今まで旅した場所どことも、山と海、空の感じが異なっている。深い山の中で、近くに海があるのだとは感じられない場所もたくさんあった。

震災遺構の大川小学校に向かい、校舎をひとりで見て回る。大川小学校では、震災当時の在校生と先生のほとんどが津波の犠牲になった。そこは、学び遊んでいた子どもたちや先生の気配がまだ残っている場所だった。まるで、昨日まではそこに日常があったかのような。

それでも、よく見てみると震災前はたくさんあった学校の周りの家は全てなくなり、田んぼと畑、公共の建物しか立っていない。校舎のドアは全て流されてしまっているため、校舎の反対側の美しい景色がそのまま見える。それはすごく不思議な光景で、津波という災禍がもたらした傷が、残酷にあわられているような気がした。

語り部さんが話している力強い声に引き寄せられ、彼の方に歩みを進める。

「わたしはここで娘を亡くしました。ここはわたしたち、遺族のためだけのものではなく、あなたにとっての「もしかしたら」を考える場所でもあります。わたしたちみんなが考え、未来につないでいくための場所です。この教訓をしっかりと未来に繋いでいかなければならない。わたしはこれから死ぬまで、このことを考え続けます」

彼の語りは力強く、まっすぐに胸に響き、涙がこぼれる。彼がわたしの方を見つめてくれた気がした。

わたしはこの旅で初めて震災のことをしっかりと学び、身体にこの記憶を刻み込もうとしていた。この土地で、震災で大切な人を失うとはどういうことなのかを、わたし自身の目を通してずっと見つめていた。

仙台駅で車を帰し、新幹線で東京まで帰る。友人と隣の席で、彼女はご飯を食べて眠り、わたしはずっと小指さんの「宇宙人の部屋」を読んでいた。



最近、彼女に会っても前みたいに語ることができなかったのは、わたしが自分自身の人生に妥協し、どこか諦めていて、思い込みを背負って自分に枷をかけていたからだと気付かされる。この旅で、彼女が何度もわたしに伝えてくれたように。わたしは、わたしの人生を生きていいのだと、好きなことをして、強くしなやかに生きていくことができるのだと、この旅が、彼女が、わたしにそれを再び信じさせてくれた。

旅から帰ったあとは、風邪をひいて身体は満身創痍だったけれど、心がとてもすっきりとしていて、久しぶりにこんなにも心地いい疲れを感じている。

この旅のことを、全てを言葉にできたとは到底思えない。枠から零れ落ちる何かがきっとあって、それはそっと言葉にしないまま、傍に置いておきたい。そして、この旅の記憶はわたしの中でずっと生き続けていく。

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