大仏ホテルの幽霊
■ 感想
1887年、仁川に韓国初の西洋式ホテルとして実在していた「大仏ホテル」を舞台に描かれる「恨」と「愛」。
物語は宿泊業としての経営が傾き、中華料理店「中華楼」として第二期を迎えていた1950年代後半、3階のスペースで住み込みのフロント係をしながらアメリカ行きを望むヨンジュ、朝鮮戦争で家族を失ったヨンヒョン、華僑としての出自に韓国人として受け入れてもらえずヘイトの対象になりながら中華楼を管理していたルェ・イハン、幽霊小説を書くためにホテルに宿泊してくるシャーリイ・ジャクスンを中心に展開されていく。
小説家であるシャーリイ・ジャクスンが物語の中に取り込まれ、フィクションと分かっていても、登場人物として彼女がそこにいるということにファンとしては大興奮してしまう。シャーリイの夫婦関係や、荒廃した生活、嫉妬、絶望など、本人の背景と絶妙にリンクしているのも面白く、エミリー・ブロンテが思わぬ登場の仕方をしてくるのも見所。
第一部は先が見えないまま人物や時代背景の紹介的要素が多いので一見単調に思えるが、第二部で目まぐるしく展開していく驚きたちの重要なスパイスとなる話がふんだんに織り込まれているので、第一部を二度読みしておくか、ラストまで読んですぐ第一部を読み返してみると、複雑に絡み合っていく物語の中で迷子にならず、人物ごとの解像度が上がることで沢山盛り込まれたテーマをそれぞれに余韻深く味わうことができる。
作中、植民地だった時代に非道な行いをした日本への恨みが其処此処にあり、「敵産家屋(日本の支配下で建設された日本風の家屋)」など、今も消えない苦しみから生まれた言葉たちを目にする度にはっとし、鋭い恨みに胸を掴まれる。姿の見えない悪意がスピードを上げて背後から追いかけてくるような恐怖の描写も凄まじく、自分も追われている感覚に陥り、読み手の文字を追う目を容赦なく追い立ててくる。
決して晴れることのない恨み。家に凝る悪意。ラップ現象や沢山の声。シャーリイ・ジャクスンの著書「山荘綺談(丘の屋敷)」を彷彿とさせる構造の面白さや、19世紀に古典怪談として定着した、恨みが晴れるまでずっと殺人が続いていく「薔花紅蓮伝」を上手く取り込んでいるところも魅力的。「薔花紅蓮伝」と言えば2003年のキム・ジウン監督「箪笥」も薔花紅蓮伝に着想を得た映画で、ずっと古典として輝きを放ち続けているこの物語がこれを機に日本でもまた新訳で刊行してほしい。
物語は「恨」から「愛」へと帰結していくが、日本人の侵略で植民地としての哀しみが生んだ「恨」、朝鮮戦争で焦土と化した地獄の「恨」、右翼と左翼に分かれた民族間での憎しみが生んだ「恨」、夥しい「恨」たちは「昔の話」ではなく現在にも続く「恨」の歴史であり、読者である私も日本人として他人事ではない。互いの哀しみを少しでも共有できるよう、「恨」の思いから生まれる言葉を、物語を、しっかり受け止め、この先の未来でひとつでも多くの心と心が国境を越えて結び合えることを祈り、読むことを、考えることを止めることなく前へ進んでいきたい。
歴史を知り、恐怖に戦慄し、シャーリイ・ジャクスンに快哉を叫び、ミステリーのように前のめりに惹き込まれる、良作ゴシック。
■ 漂流図書
◽丘の屋敷 | シャーリイ・ジャクスン
「山荘綺談」の版を以前に読んだので、「丘の屋敷」の版で再読したい。
シャーリイの人気は日本でかなり上がってきていると思うので、発売が延期になったまま立ち消え状態の「野蛮人との生活」も是非刊行してほしい。