人生を終えるとき
数年前まで、某業界の中枢組織に居た。
毎日早朝に目覚まし時計のアラームを鳴らし、心身に鞭打って無理やり起きて、遠距離通勤をしていた。
社会的には"ご立派"だったのであろう、そんな生活をしていた私は、ほんのりとこんな思いを抱えていた。
もしも今死んだら、私はなんにもやれていないこの人生に対して虚しい気持ちになる。
そんな生活を終えて、今私は社会的にはなんにもしていない。
社会的には"大丈夫?"なのであろう私だが、もしも今死んだとしても、充分に満足して自分の人生を終われる気持ちでいる。
嘘だろう?
そう思われるかもしれないけれど、本当に。
今日のような寒い日は、昼下がりにまだ布団から出ていない。
何も食べずに布団の中で、ゴロゴロと本を読んだりして過ごしている。
私を、駄目人間呼ばわりするような人はゴマンと居るかも知れないけれど、私自身はとても幸せだと感じている。
寒いから寒くないように過ごそう。
そう、自分で決めて過ごせることに大きな満足感を覚えている。
嫌だと思いながら、我慢して無理をして渋々、何のためかわからないような他人からの指図を受けて過ごす苦痛。
おそらく私は、特にそういう生き方を苦痛に感じる性質だったのだろう。
だから今、何者でもない私が1日、温かい布団にくるまれて過ごすことに、何も食べずに横たわっていることに、幸せを感じる。
起きたくなれば起きる。
食べたくなれば食べる。
だけど今日は寝ている。
生まれてきた理由に思いを馳せるとき。
昔の私は、何かとてつもなく素晴らしいことをして社会貢献したり、多くの人に良い影響を与えるような人にならなければならないと思いこんでいた。
だけど、本当にそんな理由で人は生まれるのだろうか。
この人に会いたい。この人のもとに生まれて、この人を笑顔にしたい。
ただそれだけの気持ちで、お母さんのお腹に滑り込んできたのかも知れないと思うほうが、私にはしっくりとくる。
身体を持ってこの人に会いたい。
身体を持ってこんな体験がしたい。
この人というのは、何者かになった立派な人なんかじゃない。
こんな体験というのは、世界的に立派な事をするということじゃない。
ただ、お父さんやお母さんになる人、きょうだいとなる人と会いたいだけだったり。
後に親友となる人、家族となる人と会いたいだけだったり。
綺麗な花をしゃがんで眺めたいだけだったり。
温かいお布団に包まれてみたかっただけだったり。
そんなことのために生まれてきたと思うほうが、しっくりときた。
だって私は、何者かになるために生きていた頃よりも、
何者でもない自分で居る今の方が、
確実に、この人生を生きているから。
満足しました。
多分この人生を終えるとき、今の私はそう思うだろう。
つらい思いも我慢も窮屈さも理不尽さも体験した。
そして、そこから離れることも体験した。
離れた先にあった、自分の大切な人生を感じることも満喫できた。
ああ、私は満足だ。
温かい陽気に誘われて咲いた、庭の梅の花が
凍えるような冷たい雪をその花弁に乗せている姿を見るたびに。
再び温かい陽射しを浴びたときの、フッと綻ぶようなよろこびを感じられるといいな。
そんなことを感じられる人生を送れること。
私が生きたかった私の人生は、そんなささやかで、とても繊細なものだったことを、布団の中で改めて思うのだ。