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同性婚を認めよう、の前に

“同性婚を認める方向へ”
みたいな見出しを見て、猛烈な違和感を感じたのです。

私はそもそも、そこになんの偏見もないし何が違和感なのかな?
と不思議だったのですが、違和感の正体はそもそも論でした。


つまり、

婚姻を認めるってナニ?


ここに引っかかっていたということ。


婚姻というのは、家と家との契約です。
言葉を選ばず表現するなら、

お宅から1人、こっちに人間出しなさいよ。

という契約を結んで、どちらかの家に人間を取り込むということです。

人生賭けた リアル花いちもんめ ということ。

······ですよね?(笑)



そうなのです。
そもそも、なんでそんなことをしているのか。

1つには、苗字の問題。
お互いの家の苗字を背負う二人から生まれた子どもに、どちらの苗字を名乗らせるか。
それだけのためのリアル花いちもんめといっても過言ではない。

と、そう思ったのです。


このことで、悲しい思いや我慢を強いられてきた人は今まで、山ほどいるんじゃないかと思うのです。


でも。

苗字って、名前を呼ぶときに、どこんちの子か分かり易いという以上の意味ってありますか?

個人を認識し易いものではあるけれど、めちゃくちゃ名前、他の人と被ってることありますよね(笑)


そんなことのために、どれほど苦しい思いや嫌な思いを人々はしてきたのでしょうか。

別に婚姻制度自体、要らなくないか?
苗字とかも適当で良くないか?
子どもに好きな方選んで名乗ってもらえば良いんじゃなかろうか。

てか、苗字要る?


みたいな思いがつらつらと出てきました。



家族


連帯感が好きでファミリーネームを名乗るならそれもよし。

でも、そのファミリーネームすらももっと自由に決めて名乗ってもいいんじゃないのかな。


もはや私的には、同性だろうが異性だろうが、婚姻制度の方への違和感が明確になりました。

気の合う人と楽しく暮らしたい。

本能で異性に惹かれて子どもができるケースが多いってだけで、基本的に自分が惹かれる人と一緒にいればいいし、もっと言えば便利だから一緒に暮らしてるだけで、別に必ず一緒に暮らさなければならないわけでもない。

近所に住んで、一緒に過ごしたいときだけ共にいる、みたいな暮らしでもいいはず。

なんだか、何故そうするのかの理由も分からず形に縛られ過ぎなんじゃないのかな。
どんな形の人も、四角い小さな型にはめられて窮屈に生きてるだけなんじゃないのかな。



見出しの言葉からふいに、そんな風に感じてしまいました。


誰かに認めてもらおうとする。

その前に。

そもそも、デメリットのほうがあからさまに大きい、その制度の枠にハマってまで、他人に認めてもらうことが本当に必要なのか。


世間体って、具体的に誰におもねり従おうとしていることなのか?



素朴で小さな、だけどとても大切な違和感が浮かんだのでした。