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良かれと思って

「クソバイス」

という、造語がある。

私の認識では、

求められてもいないのに、勝手に自分の信じる正解を相手に押し付ける行為

という意味。

つまり、他人を“良かれと思って”コントロールすること。

これは、建前上は善意であり愛であり、本人の正義である。でもその実は、全能感や優越感を感じるための手法の1つでもある。


何故こんなに詳細に語れるのか。

それは、このクソバイスこそが、私の専売特許だったから。


最近、この、自分自身のクソバイスが分からなくなってきた。

いざ、自分が今まで信じてきた正義が刷り込まれた思い込みであり、人を助ける体を取る事で劣等感を埋めるための手法だった事に気づいてみれば、今度はこの、「クソバイス」をしてしまう事が怖くなり、自分の想いを伝えることが出来なくなった。


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あからさまなマウントを取るのではなく、良かれと思って自分の意見を伝える事で、上に書いたもろもろを満たし続けて生きてきた私にとっては、そうではない想いの伝え方が分からない。


結果、口をつぐんで悶える事しか出来なくなった。


何が正解なのかなんてない、それぞれの中に自由な答えがあるこの世界で、自分の想いをどう表現すれば良いのか。


押し付けられれば、人は反発するもの。

今までそれで、私はたくさん失敗してきた。

自分は本当に良かれと思ってやっていた事だったけれど、心の蓋を開けてみれば、良い人になって劣等感まで満たせる、とても美味しいアイテムを使っていただけの事。

いくら親身にクソバイスをしてみた所で、相手はそんな邪ななんちゃって親切モドキを深層心理で嗅ぎ取ってしまうから、善意で言ってくれたのに申し訳無いと、罪悪感すら抱きながらも受け取れなくなる。


下手をすれば、特に家族の間ではそれが、口喧嘩に発展する事もしばしばとなる。


良かれと思っていたのに

蓋を開ければ、偽善を本当の善だと思っていた。

私は今、またそれをやっては居ないだろうか。


今度は自分に対する信じきれない気持ちが出てくる。


そんな中、ふと思い出した事がある。



それまで惰性で生きてきた私が、

このまま死んだように生きるくらいなら、ちゃんと生きて死にたい!


と、一大決心した事があった。

その結果、孤独死してその白骨死体を民生委員に発見されるような未来がくるかもしれないけど、それでもいいか?

と、自分に問いかけたあの時の事を。


この話を人にすると、みんな笑う。私も笑い話にして、語っている。

でも当時は本当に、この事をリアルに覚悟した。

“それでも良いから、生きよう。”

そう、覚悟した瞬間があった事を。


そうしたら、思った。

自分の想いを押し込めたままでは、きっと後悔する。

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思いを伝える事と、相手をコントロールする事は違う。

結果にコミットしない。


“私にはこんな想いがある。”

そう話す事くらいは、自分に許してあげてもいいんじゃないか。

その上で、相手がそれを受け取ろうが受け取るまいが、私が好かれようが嫌われようが、全ては相手の自由。

そして、私の想いを伝える事も私の自由。


お互いの自由が担保される関係こそが、尊いのではないかと言う結論に至った。


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コントロールの想いを乗せず。


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思っている事を、ただ淡々と伝える。


そして結果にコミットしない。


私のコミュニケーションが、その世界線に移行した時。

私の “良かれと思って” に姿をやつした偽善は、自然に消えていくのだろう。

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