小さな後悔 子どもの頃の記憶と小型犬
たしか、私が10歳くらい。
同じ学区内に引っ越しして少し経った頃。
下校中、突然犬がやってきて、私が着ていた毛糸のベストの結び目をくわえた。
私を何処かへ連れて行こうとしている。
すぐにそう理解した。
犬に引っ張られるまま、ついていこうとしたその時。
周りにたくさんいた下校中の子どもたちのうち、男の子たちが私と犬の間に割って入った。
「逃げろ!」
男の子たちは、両腕を広げて犬と私の間に立ちはだかり、その犬を遠ざけながら、口々にそう叫んだ。
その頃はまだ、そこいらに野良犬がウロウロしていた。
男の子たちは、勇敢に野良犬に襲われた女の子を護ろうとしていた。
あの頃は、男性は女性を守りいたわるもの、という気風がまだ強くあった。
私は、犬が自分に危害を加える気なんてサラサラないことも理解していたし、何処かに連れて行こうとしていることも解っていた。
だけど、私は男の子たちに言われるままに、逃げるようにその場を後にした。
犬が男の子たちに追い払われながら、悲しそうに私を見ていたことも解っていた。
そのまま家に帰ると、おかあさんが玄関先に雛飾りを出していた。
だから恐らく、2月下旬の平日の記憶だ。
この記憶は、ふいに湧き上がってきて私を苦しくさせる。
あの犬は私に助けを求めていたのではないか。
家族の犬が危機に陥っていたとか、はたまた散歩中の飼い主が倒れているだとか。
何故、たくさんいる子どもの中から私を選んだのだろうと思ったけれど、きっと一番意図に気がつきそうな人間を選んだのだろうことは、今私が動物たちとお話をしていることから推測できた。
その犬の最大の失敗は、意図に気がついても自分の意志を出せない子どもを選んでしまった事だ。
あの時私は、犬の気持ちに気がついていたのに、男の子たちに言われるまま逃げてしまった。逃げなくてもいい事に気がついていたにも関わらずだ。
そんな、自分の想いを脇に避けて、他人の想いばかり汲む自分がつらかった。
あの時本当は、
いいの!
この犬は何か困ってるみたいだからついていくの!
って私が叫べばよかった。1人だったらそうしたし、そうしたいと思っていた。
何度も思い出すたびに、あの犬の想いは遂げられたのだろうかと心を痛め、他人に流された自分自身に心を痛める。
小さな子どものお腹辺りにあるベストの結び目を、立ち上がって咥えていたくらいだから、あの犬は小型犬か子どもの犬だったのかもしれない。
犬に申し訳なかったとか、犬は大丈夫だっただろうかという思いはダミーだ。
私が最もつらいのは、自分の思いを置き去りにしてないことにしてしまったことだ。
これは意識の自殺に等しい。
自分自身を亡き者にした。これは大げさでもなんでもない。
何故こうなってしまったのかを、因数分解してみる。
今でも私にはこう言うところがあるが、全てにわたってそうかと言うとそうでもない。
例えば遊びの計画を立てる時は、自分の思いを限りなく貫き通そうとする。
一緒に行く友人に付き合ってもらうことのほうが多いくらい。
かと言って、常に自分の思いばかりかといえばそうでもない。友人に希望がある時はそれを優先したりもするけれど、それは他人に流されることとは違って、相手を尊重して自分も嫌ではないからそっちにしようと選んでいる。
そして、私が他人に流されることは、他人に嫌われたくないという思いとは無縁だ。
人に理解されないとか、人に嫌われることについて私には恐怖がないので、だから流されるわけでもない。たちが悪いのは、それよりももっと奥深いところで私は人に流されている。
何故だろうかと考えていてふと思い浮かんだのは、両親からの躾の中で繰り返し言われていた事。
人様に迷惑をかけてはいけない。
そして私の母は揉め事が嫌いで、家族にさえ我慢していた。
だからあまり人と交流を持たず、家にいることがとても多かった。
そんな、他人に譲り続ける姿を見て育ったら、そういうものだと思ってしまっても仕方がなかったのではないかとふとそう考えた。
だって、狼に育てられた人間は四足歩行するようになるのだから。
母は流されていたわけではなく自主的に相手に合わせていたのかもしれないけれど、私はその動きだけを学んで反射的にそうするようになっているのかもしれないと考えたら、ちょっと納得した。
嫌われたくないわけでもないし、自分が間違っているからと思っているわけでもない。
計画を練るときなどには余りそうならないのに、咄嗟の出来事で反射的に流されてしまう事が多いのは、単なる刷り込みからの脊髄反射と考えれば、そりゃそうなるかと思えた。
そしてそうとは気が付かず、無意識に人に流されるたび自分にガッカリして、こんな自分ではダメだと繰り返し自分自身に嫌気が差す。
ならばどうするか。
人に流されている自分を自覚して、そうしなくても構わないのだと気がつけばいい。
もしまた、動物から助けを求められた時、勇敢な男の子たちに守られそうになっても、そこで足を踏ん張って、
大丈夫この子は私に危害は加えないから。
そう言えばいいだけ。
何度でもやりなおそう。
大人になってからでも、記憶の中の小さな私を、何度でも。