没入感
この男性は何をしているかといえば、揉んでいるのである。
こちらからは見えない作られた裸美女が彼には見えており、
全ての人類が理想とするような、
それはつまり絵画に書かれているような、
芸術と表現されるほどの果実を彼は揉まずにはいられないだろう。
彼の理性がぶっとび、やっと触れたその果実は空気である。
空気を揉んだところで何の感触も得ることができない。
彼に残される感覚は、視覚と触覚の乖離だけであり。
ただひたすら美女が果実を揺らしながら絶頂する姿を見ているだけだ。
没入感という言葉をよく耳にするようになった。
打ち込む・専念する・没頭するといった言葉と類義の言葉である。
没頭とほぼ同義語として捉えられる。
打ち込む・専念するという言葉に対して、のめり込む感が強い。
果実の突起で考えたとしても、
突起に打ち込んだり、突起に専念することはできるかもしれないが、
突起に没入してしまっては、出ているものも陥没してしまうということである。
あまりに突起に夢中になり、近づきすぎた結果、
彼は突起と一体化し最終的に果実に吸収されてしまう。
つまりそういうことであり、果実の宇宙性を同時に感じることができる。
バーチャルリアリティーが徐々に市民権を得ているが、
その精度を評価する指標として、没入感という軸が使われるようになった。
つまりこの男性は、視覚的な没入感は十分得ているのだが、
エアーを揉んでいるというこちらから見ると非常に間抜けなその姿から、
触覚的な没入感はまだ得られていないと言えるだろう。
没入感の精度を極めれば極めるほど、
バーチャルリアリティーはリアリティー化していく。
センクスの理想とする美女をバーチャルでは自由に作ることができる。
その美女のバーチャル感がなくなり、
センクスの脳に完全な没入感をもたらしたとすれば、
人間の中に美女を見つけることはできるのだろうか。
そうなっちまったらこのブロゲも終わりである。
それを避ける方法はただひとつ。
没入させる側でいることである。
人間の美女も、バーチャルな美女も、センクスに没入するのである。
リアルとバーチャルを超越する存在を目指して、
インスタグラムで美女を検索する日々が続く。