「大切にされてこなかった男たち」がつくる男社会の話。
ジャニーズ事務所の性加害について報道したBBCの番組、あらためてみてみた。(※YOUTUBEで見れます。)
日本のメディアというか、社会全体が、ジャニーズ事務所だったりジャニー喜多川氏を叩く方向になっているけれど、このBBCの番組が指摘しているのは、それだけではないように思う。「日本人、おかしくね?」というトーンが全体に漂う。被害に遭ったにも関わらず「ジャニーさんのことが好き」と言う被害者に、記者のお兄ちゃんが「ちょっと待って、理解が追いつかないんだけど…」と困惑するシーンが何度か登場する。ジャニー喜多川氏を称賛する一般市民の街頭インタビュー(編集されているだろうが)も多く登場する。芸能界だからなのか、「そういうものなんだろう」という空気感。確かに、その空気が存在していたことは否めない。
さて、一連の報道では強姦罪の法改正にも触れているものもあったので、あらためて内容を確認してみた。ざっくり言うと、次のような感じである。
改正前の強姦罪、えらいこっちゃ。
男性は加害者にしかならない。被害にあっても、強姦罪ではなく強制わいせつ罪にしかならない。イヤなことをされたとしても、軽く済まされちゃってる。男性同士の性への無理解もあったんだろうが、声をあげてはいけないもの、耐えるべきものとでも思われていたのだろうか? そういう文化の名残り(いつの時代だw)? いやいや。根本的なところで人として大切にされていなくない?
話はやや飛ぶが、上野千鶴子先生の「女ぎらい」では、「ホモソーシャル」についてこう表現されている。
「ホモソーシャル」=男同士の絆の社会、というとカッコよく見えるかもしれないけれど、女性蔑視と同性愛嫌悪が基盤にあり、「男と認められた男」でないと入れない社会ということだ。
性別はひとりひとりの人間が持っているスペック情報のひとつにすぎないと私は考えている。男であること・女であることの前に人間である。しかし、ホモソーシャルでは「男と認められないと」いけない。男同士の社会の中で「男らしさ」を求められ、女性からも「男らしさ」を求められる。前提にある「人間であること」が踏みにじられているとしたら、えらく窮屈な話ではなかろうか? 男性の方がツライときにツライと言わないのは、こんな背景もあるように思う。別に泣いたっていいんだよ。涙が出るのは正常な生理現象だ。
こうして大切にされてこなかった男たちが、他人を大切にできるわけがない。
大切にされるってのは、「評価される」ってことじゃない。優遇されたり甘やかしたりってことでもない。人として等しく尊重されるってこと。国のトップが、なんの違和感もなく(むしろ誇らしげに)、「女性ならではの感性と共感力を」とか言っちゃうのは、そこらへんの勘違いがありそう。それ、全く相手を大切にしてない発想だからね。自分のために相手を都合よく使おうとしているだけ。そこらへん、わかってる? そもそも、あんたらには感性とか共感力とかがナイのか?あるはずのものをナイことにしてるだけんじゃないのか?
男性こそが自らを「人として」大切にすべきときなのかもしれない。