70 対称性双生児
「対称性双生児と言います」
と、彼らは言った。
「まったく同じ動きをするので、対称ということです。いわゆる一卵性双生児のなかでもかなり珍しいタイプの双子らしいです」。
その言葉の通り、彼らは一言一句同じ言葉を、同じ抑揚と振る舞いで、同じく話した。演劇のようにシナリオを決めたうえで訓練したとしても到底不可能なほど、その振る舞いのすべては「同じ」なのだった。「似ている」というのではなく、全く「同じ」振る舞いをする人間が目の前に二人存在するというのは、何とも奇妙な感じがした。こちらの動揺を察してか、彼らは少し笑った。
「すみません、お話には聞いていましたが、こうして初めて目の当たりにすると、やはり……」
と、どのような二の句を継いでも失礼なような気がして黙っていると、彼らは言った。
「妙なものですよね。わたしにしても妙なものです。いつまで経っても妙な感じは抜けません」
「と言うと、ご自身にしても、やはり違和感がある、と」
「ええ。自分の隣に、常に自分の動きを真似する自分がいるわけですからね。それは妙なものですよ」
そう言われてみれば確かに、そうした状況は妙なものだろうな。と、想像しながら一口水を啜った。そこでふと疑問が湧いたのだった。
「聞いてもいいでしょうか、ちょっと失礼かもしれませんが」
「ええ、何でもどうぞ」
「自分の横に自分を真似する自分が居る、とおっしゃいましたよね。つまり、一方が自分で、もう一方が自分でない者なわけですよね。そうなると、今お話しされているあなたというのは、右のあなたと左のあなた、どちらなのでしょう」。
聞くと、彼らも水を一口飲んだ。水を飲むという点では同じながら、置かれたグラスの位置が対称ではないところは、少々補正して手を伸ばしたように見えた。
「あなたから見て右側の人間がわたしです。少なくともわたしはそのつもりで話しています。なので、どちらに目線を向けるか迷われたら、右のほうを見てもらえれば間違いないです。そのほうがわたしも話しやすいですし」
「ということは、あなたからすれば、あなたから見て右側の身体は、あなたの真似をするだけの、そうですね、すみません、失礼かもしれませんが、あやつり人形、みたいなイメージなのでしょうか」
「ええ、おっしゃる通りです。右のわたしは、わたしからしてみればまあ、おまけ、いやお荷物みたいなものです。たまに殺そうとしてみるんですけどね。例えば、建物の屋上の端っことか、堤防の端っことか、そういったところに立って、脇に押しやって落とそうとしてみたり。そういう時は背中合わせになるようにくるっと逃げるんですけど。まあ、半分冗談みたいなものです」
「それは色々と、苦労がおありなんでしょうね」
「いえ、それほどのことではありませんよ。普段は専用の部屋に閉じ込めておくんです。わたしだけ部屋を出た状態で扉を閉めると、彼はこっちには来られませんから。もちろん彼はその後もわたしと同じように動きますけど、部屋の内壁は全面クッションになっていて、床はタイル張りになっているので、手足を振り回しても、排泄しても、まあそれほどの問題にはなりません。掃除が大変というだけで」
「ということは、右側の彼が怪我をしたりしても、あなたは痛くない、と」
「ええ。右の身体の感覚というのは、わたしにはありません」。
そう言われて、あらためて右側の彼を見ると、左側の彼と同じように柔和な笑みを浮かべている。右側の彼がただ左側の彼を真似するだけのあやつり人形だとは、どうしても思えない。さらに無遠慮にまじまじと眺めていると、やがてあることに気づいた。右側の彼も左側の彼と同様、目線が合っているのだった。
「もしかして、あなたがたの動きは、厳密に対称というわけでもないのでは?」
「気づかれましたか」
「ええ。もし厳密に対称なら、左のあなたとは目が合っても、右の彼とは目線が合わないはずです。それにさっき、水の入ったコップを手に取りましたけど、右の彼のコップの位置が若干左に寄っていましたね? そのぶん動きを補正したように見えました。よくよく考えてみると、歩くことさえ難しいはずですよね、地面は常に平坦なわけではないですし」
「その通りです。右のわたしにはそれなりに行動を補正する能力があるらしいです。先ほど言ったように、屋上から落とそうとしてもくるっと向きを変えて対応するように。この点を伸ばすことで右のわたしの自我を発展させて、わたしとは独立した人格を持つ者に、つまり普通の人間に矯正することができるのではないか、というのが医者の見立てで、今もあれこれ実験まがいのことを続けていますが、わたしとしては不毛なことだと思います」
「つまりそうした補正能力は、右の彼の意志だ、と」
「ええ。医者はそう言いますけど、わたしは少し違うと思っています。それは意志以前の、本能、のようなものだと」
「ということは、やっぱり右の彼には意志がない、と」
「昔はそう思っていましたけど、今は少し考えが違います」
「と、言いますと」
彼らはしばらく考え込むようにうつむいた後、こういう話をしてもあまり理解されないのですが、とつぶやいた。ぜひ話すようにと手を向けると、とつとつと語り出した。
「われわれは『対称性双生児』ですので、まあ、同じなわけです。身体のつくりから、行動から、何から何まで。でも、何から何までと言っても、どこまでが同じなのだろうかと、考えてみたわけです。例えば、『考えたり感じたりしていること自体が同じだったら?』というように。わたしは、わたしから見て左の身体を私と感じています――ああ、わかりづらいので以降は『左体』と言いましょう――左体のほうをわたしと感じています。つまり、左体の眼からものを見て、左体の口からものを話し、左体が傷つけられると痛みを感じます。でも右のわたし、つまり『右体』のほうもまったく同じだったら、どうでしょう。右体のわたしのほうも、左体の眼からものを見て、左体の口からものを話し、左体の身体が傷つけられると痛みを感じるとしたら。これは要するに、このわたしと呼べる意識主体が、左体と右体のどちらに宿っているものなのか、という問題なわけです。そしてもしかしたら、このわたしと呼べる意識主体が、まったく同じ内容として、二つの身体に、同時に二つ、存在しているのではないか、という仮定なわけです。ええと、ここまで大丈夫でしょうか」
「ちょっと待ってください、整理します」
と、一言してから、しばらく考える。
「そうすると、あなたはつまり、左体と右体のどちらに帰属しているのか、わからないことになるのでは」
「ええ、その通りです。わたしは左体からものを見ているけれど、実は右体に宿る魂なのかもしれないわけです。もちろんそのまま左体に宿る魂なのかもしれません。しかし、原理的に、どちらなのかはわからないわけです。そんなことはありえない、と医者には言われました。というよりも、そもそも医者にはわたしが何を問題にしているのかがわかっていないようでした。恐らく医者というのは、身体と魂とを不可分のものとして捉えたい人種なのでしょう。当然のことながら、彼らは身体を救うことと魂を救うこととを同じ一つのこととして考えているのでしょうから。話が逸れました。原理的にわからないとは言いましたけれど、二分の一の確率で、それを知ることができる方法が一つあります。何だかわかりますか?」
「なるほど、それであなたは右体を殺そうと」
「そういうことです。もしこのわたしが右体に宿る魂だとしたら、右体を殺すとわたしは消えて無くなるでしょう。反対に、右体を殺してもわたしが消えないのなら、そのときはじめてわたしは左体に宿っている魂なのだということを、結果的に知ることになるでしょう。というわけでこの方法を使えば、二分の一の確率で自分がどちらの身体に宿っているのかを知ることができるわけです」
なるほど。と答えてから、彼らが話したその思考実験じみた仮定を、順を追って想像した。
「この仮定は、つまりあなたがたの右体と左体の両方に、左体がまさに自分だと認識する意識主体が、同時に二つ、存在しているというものですよね。そうなると、右体が死んだ後、左体に残された意識主体が、必ずこう言うのではないですか、『ああ、やっぱり私の魂は左体に宿っていたんだ』と。つまり、あなたのその実験は、あなただけに知られる性質のものであって、われわれの誰もそれを知ることはできない、ということになりますね」
「ご明察です。この話をここまで理解してくださる方に、わたしは初めて出会いました」
「ええ、わたしもなぜあなたの話がここまで理解できるのか、自分でも不思議です。つまりあなたの問題にしていることというのは、あなたの思考内容とか、感じている感覚実質とか、そういった、いわゆる『内容』のすべてが同一である意識主体が同時に二つ存在したとしても、そのどちらかが『ほかならないこのわたし』であると、いえ、むしろどちらかでなければならないというところにある。しかし、その『ほかならないこのわたし』というのを、あなたがたは、二人で同時に主張しているということになりますね」
「その通りです。でもわたしは、ほかならないこのわたしについて話しているのです、このような言い方が虚しいものであることを知ったうえで。われわれのような対称性双生児は、この、ほかならないこのわたしというのが、実は語ることができる性質のものではないということを、経験上誰よりも深く知っていると思います。自分の言葉や振る舞いを、同時に反復するような人間がいるということが、いかに殺意を芽生えさせるか、恐らくわれわれ以外には想像できないでしょう。それでも、あなたにはわかるはずです。わたしがわたしにとってどういう状況に置かれているのかを。そして同時に、あなたには決してわからないはずです。今こうしてあなたに向かって話をしているこのわたしこそ、ほかならないわたしである、ということを」
彼と別れてからしばらく、対称性双生児の実存について考えた。それは寝ざめの悪い夢のように常に頭にまとわりついて離れなかった。
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