【書評】村上靖彦「摘便とお花見 看護の語りの現象学」
最近母親を在宅で看取った。
末期の肺がんだった。
在宅での緩和医療に切り替えた時点ではまだ自分で立って歩くことができていたのだが、次第にそれも難しくなり、やがて寝たきりになり、筋力も弱り、寝返りも難しくなり、譫妄の度合いが増し……といった具合に次第に弱っていくわけだが、その時々において必要なケアというのがある。
訪問看護師はその時々に応じて必要なケアを行い、場合によっては訪問医師、訪問入浴、介護用品レンタル、ケアマネ等にその場で連絡を取り合って物品調達やスケジュール調整まで一人で行う。
言ってみれば、彼女らは一流のプレイヤーであると同時に一流の監督でもある。
母親を担当してくれた人は特にスゴ腕のベテラン看護師だった。常の笑顔の合間に時折見せるシリアスな表情が、これまでの経験の重みを感じさせるような人だった。初対面の時こそ「厳しそうな人」という印象で、母も「ちょっと怖い」と言っていたのだが、それは百戦錬磨の凄みなのだと、後になって感得した。
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本書は四人の看護師の聞き取りを現象学者である著者が分析した内容となっている。それぞれのインタビューでは看護師の生い立ちや職歴などが詳しく語られ、その時々で思ったことや印象的なエピソードを軸に看護師自身の価値観、患者との向き合い方などが深掘りされてゆく。序文でも語られているが、看護師の心理ではなく、あくまでも構造に着目した冷静な分析がなされている。
生い立ちも経歴も様々な四人の看護師なのだが、それぞれのインタビューと分析を見ていくと共通点が見いだされていく。
印象的なのが、患者と接する際に「感情を切り離す」という点。
同情を排する、と言い換えてもいいかもしれない。
本書初めに登場するFさんの印象的なエピソードがある。
30代で神経の病に罹り余命僅かの男性、yさんが、尊厳死の同意書に記入する。手を動かすのもギリギリの状態で、yさんは何度も書き損じるが、Fさんは手を貸すことなく、ただ見守り、「目に焼き付ける」。
感情は感情としてありながら、それを差しはさむことなく患者と相対する姿勢は本書で登場する四人の看護師全員に共通している。
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四人の看護師にもう一つ共通しているのが、みな死を看取る立場にあるということだろう。
ふたたび私の母の話だが、唯一の頼みだった分子標的薬も効き目がなくなり、いよいよ病院で出来ることがなくなったという段階で在宅に切り替わった。その時点で治療による改善を目指す通常の医療から、今起きている苦しみにその都度対処していくという緩和医療に切り替わる。
言ってみれば、価値の重心が未来から現在へと移る。
この転換の意味は大きい。
大病を患い身体の自由が効かなくなってくると、仕事も家事も出来なくなる。社会での役割や、家族での役割が日々失われてゆくなかで、いよいよ死期が近づいてくると未来の展望も失われる。そうしていわゆる「この世的な」属性が殺がれてゆくと、人は「存在そのもの」に近づいてゆく。「存在そのもの」に近づいた人と間近で接する看護師もまた、看護の実践を行いつつも、看護師という身分を自ら脱ぎ捨てる必要に迫られていく、という構造がここにあるように思う。
小児がん病棟に勤めているGさんのインタビューでは、多くの子どもの死に接してきたGさんが「自分もいつ死んでもおかしくない」と死生観を転換させ、結局何もできない無力な「普通の人」なのだ、と自己認識を改める。
子どものころから「人じゃない」くらい超人的な看護師としての母を見てきたFさんのインタビューでは、自身が訪問看護師として働くようになってから、母も「ただの人」だったのだと認識を改める。
看護師の身分を超えて患者と向き合うあり方が、それぞれ別の看護師によって「普通の人」「ただの人」と象徴的に表されているのは興味深い。
人は死が近づくと「ただの人」になる。
とはいえ実際、誰しもが「何者か」である以前に「ただの人」だ。だから正確には、死が近づくことで改めて自分が「ただの人」であるということを自覚する、と言えるのかもしれない。
そして、「ただの人」とのコミュニケーションは、同じく「ただの人」の水準に立たないと成立しない。
本書は看護師のインタビューをもとにした本ではあるが、個人的には究極のコミュニケーション論として読んだ。
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一部一答
それぞれの看護師のインタビューのあらすじと、本書抜粋へのリプライを掲載する。
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【Fさんの語り】
母親が看護師、二人の妹が障害を持っている、という家庭環境で、「小児科・訪問看護・老人病院」という職歴のある人。本書インタビューのなかでは一番、生い立ちから詳しく語られている印象がある。食事中、障害のある妹の摘便を母親が行うという嫌な思い出。看護師として超人的な母親を、幼少期は理解できなかったが今は同じような存在になっていること。患者に対して感情的に同情する同僚に覚える忌避感。小児科での同調圧力。等々。
なかでも一番印象に残っているのは、若くして神経の病に罹り在宅で緩和医療中の男性yさんのエピソード。yさんは手が動かなくなるギリギリの状態で、尊厳死の同意書に必死で記入をする。Fさんは極力手伝わず、yさんの行為をただ見守り、「目に焼き付ける」。これは良い。出産に苦しむ女をピダハンが手助けしないことの良さと同等の良さだろう。
感情(同情)を排して接する、という姿勢は本書インタビューの看護師四人ともに共通している。極限状態の他者と接するなかで、他者を尊重する必要に迫られた看護師が、最終的にたどり着くのが感情(同情)を排してただ見守ることなのだとしたら、人間というのはまだ捨てたものではない、と思える。
あとは、60歳の人の話。写真が好きだというから、梅の花でも見に行こうとFさんが誘い、いざ言ったら梅の花を撮らず、妻におみやげを買って帰った、という。この話は泣ける。
幼少期、妹の看護で忙しい母親に置き去りにされた際の孤独にまつわる話。
もともと看護師の母親を見てきたFさん。看護師にだけはなりたくない、と思い続けてきたのだが、結局看護師になる。それは「現実に対処する」ためだ、と。
そういう内的必然性から職業が自然な仕方で、というかある種因果的な仕方で選択されていくというのは、割と良い人生ではないか?
「他者の現実を共に背負う」というのは良い。
かつて障害を持った妹の外出に際して、人に見られることに嫌悪を覚えたFさんが、訪問看護をやって、障害のある人でも普通に楽しく外出しているのを見たときの感想。それが、自分が妹のことを語ってもいいのだ、というものだったというのが面白い。「患者と看護師が一つの行為主体を作り出す」というのはなるほど。看護を受ける者と行う者という関係を超えて、行為主体として一致する、と。もはや夫婦みたいではないか。二人三脚。
しかしそれくらい足並みをそろえないと、他者尊重はできない。通常の意味でドライに、作業的に看護をやっていたのではそれはそれで尊重とは言えない。この尊重の次元は結構高度な気がするし、本書4人の看護師のインタビューを見ても、それぞれが様々な経験から至りついた境地、という感がある。
患者の家族に「血圧を測ってください」とか、綿棒を際限なく渡したりとか、そういうことはするな、お金をもらって仕事をしている矜持を持ちなさい、という訪問看護ステーションの方針から、この話に繋がる。
これは意外だった。まあ、一理あるかもしれない。看護師たちの感情を超えた看護というのも、職業看護師としての矜持がベースにあってこそ成立しうるのかもしれない。
感情を働かせることは、他者を自分のなかに引き込んでそのなかで把握することだ。感情を排し、他者を「その裡で生きられた個人(世界開闢の主体)」として扱うことで初めて「地続き」となる。ああ、でもこれは精確には「地続き」ではないんだよな。開闢の二重写しというか、重ね合わせというか。
だから精確に言うと、真に他者を尊重するには「私を滅する」ことが必要となる。これはもはや禅や仏教に近いが、しかし他者尊重の在り方としての滅私というのは、あまり考えたことがなかったかもしれない。――ああ、永井の仏教鼎談本「〈仏教3.0〉を哲学する」で話題になっていた「慈悲」というのも、この線から捉えれば理解できるのかもしれない。山奥に籠って独り、ただ自らのためだけに悟りを開くべく修行する僧を、山下は批判していた。梵天勧請などもこの線から理解できるのかもしれない。
病に侵され余命わずかのyさんが、動かない手で尊厳死の同意書に署名する場面。Fさんはただyさんの行為を見守ることに徹する。
本書でも印象に残っている箇所。ここもやはり、「ニーチェ/ピダハン」的な倫理観を感じる。超倫理的倫理感。それを著者は〈ケアの彼方〉と呼んでいる。
このFさんのインタビュー、とても良い。「私情とか感情とかを挟みたくない」という。まさに同情を忌避するニーチェの視点だが、そういう哲学的なことを知らない人が、看護という実践の過程でそういう視点を自然に、必然的に身に付けてゆく、という事実が本当に良い。人間捨てたものではないな、という気になれる。そしてFさんはyさんをただただ見守り、それを「目に焼き付ける」。
これ以上ないだろう。
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【Dさんの語り】
総合病院の透析室に六年間勤めた後、内科の混合病院に勤め、現在は訪問看護、という人。この章で印象的なのは、透析室というあり方。著者は大仰にも「パノプティコン」の例えを持ち出してくるのだが、衆人環視の状況下で病院の規則に縛られて主体性を失い、看護師に依存しだす透析患者の様子が描かれている。腎臓が悪いので患者には様々な制限があり、医療者としては指導しなければいけないのだが、Dさん自身はガミガミ言うのが嫌だった、と。そして「Dさんのために食事制限頑張りました」のように患者が、自分自身の健康のためという本来の目的を超えて看護師に依存し始めることを快く思っていない。なので、「距離感が難しい」と。
訪問看護に移ってからの問題として語られるエピソードも面白い。訪問看護師、訪問医師、ケアマネの三者がそれぞれ違う立場からものを言う。特に、在宅を望む家族に対して「かわいそう」という理由で施設への入居を勧めるケアマネが状況を複雑化させ、家族含めて皆疲弊していった、という経緯がある。最終的にケアマネを替え、「シンプルな援助」を実現した、と。
医師は医師で、「p167:手術をしたら歩けるようになる可能性があります」などと可能性を提示して却って患者を惑わせる。Dさんが言うには、そういう人たちは部分しか見ておらず、「この人は何を望むのか」という患者の生活全体(というか核心といったほうがいいか)が見えていない、と。
病院から自宅までの計画も含めて、多くの場合は看護師が中心となってことを運ぶのが常だという。医師でもケアマネでもなく、看護師。著者は構造的な必然から看護師がリーダーシップをとるように仕向けられている、というようなことを述べているが、これは母を介護した実体験からも頷ける。
端的に「死なないため」ということを考えたら、ガミガミ言うべきだろう。しかしその人がどう生きたいのか、ということを考えたら、「流す」というのも一つの正解だろう。どういう水準で人を見ているのか、という話(とはいえそもそも、死の一歩手前くらいまで病状が進んでしまうと、もはやガミガミ言うべきではないだろうし、状況的な必然性もあるのだろうが)。
ああ、ふと思い出した。母は健康診断を受けない人間だった。しかしそのことで重病を患い、早くに死ぬとしてもそれは母の選択だ、と思い、自分はあまり健康診断を勧めなかった(ま、自分自身健康診断に興味がない人間でもあるのだが)。結果として母は死んだが、そのことで自分自身は後悔していない。それはそれで尊重すべきだし、実際できただろう、と。
しかしそういう尊重の仕方を、看護師が出来るというのはまた凄いことだとは思う。
感情が働く場というのは、内山図で言うところの第四図だろう。私を捨てないと第五図には行けない。私というのは、オンラインゲームで言うところのアバターだから。
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【Cさんの語り】
がん看護専門看護師。がんという受け入れがたいものを受容するまで寄り添う体験が語られる。特徴的なのは、インタビューで著者がCさん本人に話を向けても、Cさん自身は必ず患者を主語にしてしまうという点。患者本人の立場に立つことを徹底した結果、語りにおいて主語が消えるという。もはや達人。ほぼ禅。
「内側から生き直」す、と。これは良い。ふとベルクソンが芸術について語った一節を思い出した。
優れた芸術作品は、鑑賞者に対して芸術家の生を内側から生き直させる、という意味の一節。感情(同情)が娯楽だとしたら、「生き直す」は芸術だ。ある意味、人と接するにあたっての芸術的な在り方だ、とは言えるだろう(ああ、だから第五図視点を持ち合わせる人というのは必然的に、芸術鑑賞ができる人なのかもしれない? 真の意味で他者を尊重できる人間は、芸術鑑賞ができる人だ、と。……確かに、そうかもしれない)。
まさに患者は看護師に対して「ゆたかで個人的で、新しい、この情動のさなかにわれわれをみちびき入れ、理解させることの困難なものを体験させようと目指」していると言えないか。
社会的身分も、家族の中の役割も、何もかもが剥ぎ取られていくなかで最後に残る「何か」が「その人らしさ」だ、とはある意味言えるかもしれない。透析室の話が示唆するように、ここで医療者としてガミガミ言ったりすると、「被介護者」としての身分に収まってしまい「その人らしさ」が出てこなくなる。同情も同様だろう。
ああ、送り出すというのはそういうことなのかもしれない。それこそ――
と、エックハルトが言うように。
死について語ることは、生を超えている。生を超えた自らを顧みるとき、そこに中心外れとしての笑いが起こる? のかもしれない。話によると、死が近づいた患者は皆、死について語りたいのだが、家族など身近な人には語れないので、Cさんはそのシグナルを見逃さず聴くことにしている、とのこと。
母はどうだっただろう。自身から死について語ったことはなかったような。むしろこちらから「いよいよ死にそうだけど、どう?」と感想を聞いたことならあった。「なんか、不思議な感じ」とのことだった。「怖い」でも「悲しい」でもなく、「不思議な感じ」と。どちらかというと母は、死ぬのが得意なタイプの人間だ。自分も恐らく死ぬのは得意なほうだ。
患者自身で自足することはできないのか。やはりそこには、鏡としての他者がいないと駄目? それは患者の能力の問題なのか、それとも構造的・論理的な問題なのか。後者であるとするのなら、他者の存在は自己の存在にとって相当重要な意味がある、ということになりそうだが。……と書いて想起したのは永井の近年の独在性の議論。対他的存在があって初めて自己が成立する、と。
ああ、西田哲学における「殺す」と逆のことがここで起こっている? いやどうだろう。あれは不可逆ではないか。引用しよう。
うん、逆順をたどることが概念的にはできるのかもしれない。殺されることで生かされた「彼」としての自己は、病によってこの世的な属性を剥奪されることで「私」に近づく。看護師も同時に、「汝」へと近づいた患者の「立場に立つ」ために、自己のこの世的な属性をそぎ落とすことで「私」に近づく。そうして「汝対汝」となった患者と看護師が、コミュニケーションにおいて言外に示される「無の場所」を築いていく、というような。無が有になる過程において「殺されることにより生まれ」た自己が、現実的な死を前にふたたび自己を「無の場所」へと導く、というような逆順の試みが、ここで行われているのではないか。
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【Gさんの語り】
小児がんの病棟に勤める看護師の話。何かできると思うのはエゴで、実際は何もできない「普通の人」。そして自分自身、いつか死ぬし、いつ死んでもおかしくない。だからこそ、「今を大切にできるようになった」とのこと。小児がん患者の看護を通じて死生観が変化し、未来的な価値観が否定され、今現在を大切にするようになった、というのは良い話だ。
患者どころか己の死をも見つめ、今を大切に生きる、というこの姿勢。たまたま最近読んだ「〈在る〉ことの不思議」の「クワシ・ウルチマ」を想起した。
病によって未来の展望が断たれると、価値の重心も未来から現在へ必然的に移る。そうした患者の「立場に立って考える」ことが、看護者自身の価値観をも変容させる、ということなのかもしれない。個人的に、上記引用の本で語られる「クワシ・ウルチマ」にはそこまで納得を覚えなかったのだが、本書のように実際に生きる過程で、理論ではなく実践としてそれが学ばれる例があるというのは説得力がある。
言い換えると、看護師といった職業的身分を取り払って、あくまでも一人の人間――というよりも存在者として立ち会うことで初めて、患者に対しても一人の存在者として尊重することが可能となる。本書で登場するすべての看護師は、だから看護師という職業的身分を捨て、私をも捨てて「存在/存在」、「汝/汝」として他者と向き合っている。
無限小と無限遠。自己滅却の果てに他者の立場に極めて接近することと、その他者を客観的に眺めること、これら二つの両立。自分自身ではなく、他者を見行うということは、考えていなかった。それは確かに、出来るだろう。一人の意識主体、いや世界開闢の主体として他者を見るのなら、その他者の立場に立って、彼自身の生を見行う、ということは確かに可能だ(ここまで来るともはや達人だ)。
ああ、もしかして。ここで看護師が患者に対してやったことを、自己に対して行うのがヴィパッサナー瞑想? ある意味ではそう言えそうな気もする。感情を排して場を共有すること。そう、私を滅して、存在の最背面を目指すこと。類型的かもしれない。
最期というものを考えると、例えば人生における達成が慰めになるかというとそういうことではなさそうだ。むしろ死というものをどう受容するかの問題であって、人生の内容の問題ではない。むしろ「人生の達成」を軸として人生を捉えている人間というのは、死を忌避するのではないか。「これだけ積み上げたものが、無に帰す」という風に。
これは面白い。坐禅も瞑想も「感情」を否定的に見るが、実は感情そのものは野放しにしながら、感情を覚えている自己を客観視する、ということも可能なのかもしれない。ヴィパッサナーでは、よく見、サティを入れることで感情は消えるとされているが、感情を消さずにそのままの状態で、感情そのものをよく観る、という境地も可能なのではないか。
感情はあってもいいが、それをまるごと客観化できる視座が必要だよね、という話だ。しかしそんな視座、よほどの経験を積まないと至りつくことが難しそうだ。ことに感情を動かされることの多い小児がん病棟の看護師だからこそ、日々の実践の果てにそうした境地に至りつくことができた、のかもしれない。いちいち感情に飲み込まれて行動不能に陥っていたら、続けていけないだろうし。
「ドライさん→スーパードライさん」というこの構造は、背進しそうだ。行きつく先がないだろうから。絶え間ない自己客観視の果てにデカルト的な答えが帰結しそうだが、しかしそれさえドライ化できる。
子どもたちから「贈りもの(可愛い瞬間、尊敬できる瞬間、など)」をもらう、というところで語られた一節。徹底してエゴを排するこの姿勢はすごい。
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