来た道のりと言葉とモーセの杖
大学生の頃、毎日身内が登場するブログを書いていた。
私が所属していたのは、落語研究会で、ネタにされたりイジられたりするのが好きな人たちの集団だったので、その日その日の出来事を、自分のフレームで切り取っては文字に落としていき、
それを落研の仲間たちが見に来てくれて、
「最近俺の登場シーンが少ない」
とか、
「あの日はこんなにおもろいことがあったのに、なんでそれを書かへんねん!」
みたいなことを言われるのがすごく楽しくて、
毎日3000文字とか4000文字の記事をポンポン上げていた。
今にして思えば若いし、すごいエネルギーだと思うけど、
とにかく周りが自分の書いたものを読んでくれるのが嬉しかった。
だけど大学を卒業したら、私のブログを喜んでくれる人はだんだん少なくなっていったし、書けることも少なくなっていった。
まったく文章を書かなくなると、日々の小さなことに気が付かなくなっていった。
大学生の時毎日ブログに書くエピソードを血眼になって頭の中のメモ帳に書きまくってたくせが取れてしまって、毎日があっさりと過ぎ去っていく感覚に気がついて怖くなって、社会人半年くらいの頃にnoteに登録してあれこれ書き始めた。
弟のこととか、自分が少し楽しかったこととか心を動かされたこととか、そういう小さなことをコツコツと書いていったけどまあそんなに読まれてなかったし、定期的に読んでくれてるのはほぼ顔見知りの人たちばっかりだった。
それでも、20代の自分が今思ったことを書き残していくことに価値を感じていたし、エピソード一つ一つを自分の手で文字に閉じ込めることが快感だった。
一応、フォロワーを増やそうと思ってみたこともあって、どっかの情報商材屋のツイートで
noteはTwitterと掛け合わせないとだめです!
みたいなのに、「うさんくせー」と思いながらもTwitterのアカウントも作った。
それでもTwitterでも少しずつ繋がりもできて、
ちょこちょこ書いたものをフォロワー30人くらいのTwitterアップロードして、
顔も知らないフォロワーの人たちから
「いつも読んでますよ。素敵な文章ですね
密かに楽しみにしてます」
なんて優しい言葉をもらってみたり。
大好きな万年筆について書いた記事がnoteのおすすめの記事に選ばれたりして。
初めて家族や友達以外に文章を褒められたり読まれたりする喜びを知り、すごく嬉しかった。
特に嬉しかったのは、何気なく書いた映画紹介チャンネルの人たちに自分の書いた文章が届いて、
「感動しました YouTubeやってきてよかった」
と言われたこと。
画面の向こうの大好きな人たちに書いたものが届いて、感動してもらえるなんて社交辞令でも嬉しすぎる!
その後いろんなことがあったけどこの出来事は本当に嬉しい出来事で今でも心の中の宝物のように残っている。
そんな状態でゆるゆるやってたらいつの間にか3年経っていて、4年目が今の2024年である。
私のnoteはあいも変わらず時々思い出したかのようにゆるゆる書いている中でもフォロワーを伸ばし70人もの人が私の文章を読んでくれるようになっていた。
大好きな万年筆のこととか、中国のこととか、日常の中で起こったちょっとした感動した出来事を書いていたけど、ターニングポイントは突然に訪れた。
蘇州で日本人学校の送迎バスが刃物を持った男に襲われる事件が起きた。
この事件の厄介なことは、犯人が最初から日本人を狙っていたので日本人学校の送迎バスを襲ったという点にあり、だからこそ私のように中国が好きで関わっている日本人にもその逆の日本と関わる中国人にも衝撃的な事件だった。
その事件について、Twitterの中国が好きな人たちのアカウントからはいろんな言葉が発せられ、私もそれにウンウンと頷きながらいいねを押していき、現実世界では分かち合えないやるせない思いをネットの中でだけでも分かち合える仲間を探していた気がする。
そんなことをしている中で、
どうやらこの事件でバスに乗っていた日本人の親子を守ろうとして刃物を持った犯人に飛び込んで行った中国人女性がいて、命を落としてしまったというニュースを聞いて、居てもたってもいられなくなって、一つの記事を書いた。
感情の赴くままに、誤字だらけのこの記事をアップロードしたあと、1日が過ぎて。
私の記事がある中国在住の方の目に触れて、取り上げてもらえることがあった。
フォロワーの多いその方にリツイートされたことがきっかけに、私の記事は瞬く間に拡散されて、本当にいろんな人たちが共感してくれて、
心が温かくなった。
私は初めて大量の人に自分の文章が読まれて、感想を受け取ると言う経験をしたのである。
ほとんどの記事のいいね数が1桁だったnoteのフォロワーも200人を超えて、
これからは200人の人が私の書いたものを読んでくれると思うとすごく緊張したけど、人の死を題材にしたもので名を広げてしまった以上は、
せめてここで繋がったこの200人の心を動かせるものを書いていかなければいけない、と背筋が伸びる思いがした。
そして、それからわずか3週間後に再び私に事件が起きる。
中国好きな方や、中国に詳しい方にnoteが読まれるようになって、返ってくる反応やコメントが面白くて。
次に私はずっとずっと心に閉じ込めていた自分の記憶と向き合う作業をしてみることにした。
それは、香港人の元カレを通して経験した香港デモの記憶を世に出すということだった。
感情を込めて、当時の記憶を掘り返して政治色をだすのではなく、やりきれない思いを死なせてしまわないように祈るように書いたこの文章を通して、私は初めて自分に向けられる匿名の悪意と向き合う経験をした。
香港についてはいろんな思いを持つ人がいるから、もちろん発信には慎重にならなきゃいけないと分かっていながらも、こんな影響力のない一個人が書いた文章に反応は来ないだろうとたかを括っていた私の目論見は甘すぎて。
信じられないような暴言や、切り取りが行われた。
細かい誤字や年号のミスをあげづらい、スクリーンショットを晒された。
わざわざ私をブロックしたあとで私の見えないところで文章に対する的外れな批判を繰り広げた人もいた。
ブロックしたのに別垢からスクショを撮って永遠と悪口を言われた。
自分の心と深く結びついた事象を心を込めて書いたものだっただけに、
自分が放った文章を好き勝手にされるのが耐えられなくて。
悔しかった。
だけど、その反面で。
自分がずっと好きで本を買い続けてきた中国関係のジャーナリストやルポライターの方達に、
自分が書いた香港についての文章が読まれてコメントをもらえたことは数々のヘイトや抽象を帳消しにするほどの破壊力があった。
私が、自分の汚い気持ちとか嫌な自分と向き合って、苦しくなりながらも書いた文章が一番読んで欲しかった人たちに届いた。
それだけで、十分だった。
もうこの先何があってもいいから、書きたいように書いていこうと思って。
それからも淡々と記事を書き続けていった。
書くたびにいつもいいねをくれる人がいたし、感想をくれる人もいた。
今まで誰にも読まれないで何年も続けてきたから、本当にそれだけで嬉しかった。
noteのフォロワーも400人を超えて、
「できることなら今年中に500人に届けばいいなあ」と夢見ていた。
この頃Twitterのフォロワーが1000人を超えていたが、この中で私はまだフォロワーが100人くらいの時のテンションで好き勝手なことをくっちゃべっていた。
言葉遣いも、荒っぽくて時には不謹慎なことを言ってみたりしてとにかく非常に危ういことをしていた結果、一つのツイートのなかの表現が誤解を呼び、とんでもない炎上を経験する羽目になった。
私が大体相互でやり取りをよくする人に向けてするテンションで書いたことが何のきっかけかはいまだにわからないが、とにかくバズり散らかし、16万いいねくらいついた。
夥しい量の引用リツイートもついて、そこには私の故郷についての差別発言や、私への人格攻撃で埋めつくされて。
きっと言葉を尽くして説明したって、彼らには彼らの信じたい物語があって、それを私の言葉で変えられるわけがないことを、目の前に相手がいたら絶対に言わない、言えない壮絶な言葉でヘイトを向けてくる無数のアイコンを目の前に呆然とした。
いつまでも野放しにしておくわけにも行かないので、とにかく酷いものはブロックしていくことにした。
だが、このブロックの作業こそが、
いままで食らってきたどんな酷い言葉よりもしんどかった。
精神疾患の病名が並ぶプロフィール、
生きづらさをひたすら書き連ねた呪詛のような言葉に混じる経済的な困窮、
出産の結果キャリアを経たれて夫に経済dvとかしか思えない金銭管理を受けている人。
終わりない介護に体も時間も搾り取り続けられてる人。
無職、困窮、病。
出口のない苦しみの底で、毎日敵を探して汚い言葉をばら撒いて何かと戦っていた。
男と女、地方と都会、女と女、男と男、金持ちと貧乏人。
用意されたあらゆる分断の中に居場所を探し、被害者という中途半端に居心地のいい椅子の取り合いをしていて。
その分断を煽るアカウントにはいつもアフィリエイトなのかなんなのか広告が貼り付けられていた。
なんだか、もう何もかもが嫌になった。
嫌になったからツイッターのアカウントに鍵をかけて引きこもった。
分断で苦しむ人の苦しみすや怒りすらも誰かのお金に換えられていく、それに気が付かないでフォロワー0人とか2人のアカウントで苦しみに彩られたプロフィールをぎっちり書き込み毎日引用リツイートで誰かに暴言を吐いている。
その言葉はどこに行く?
苦しみの底から、精神の疲弊から人を見下し憎むことでかろうじて人の形を保ってきっと生活をしているすでにぎりぎりな彼らの言葉はどこに行くのだろうか?
何年間も届かない言葉を文章として書き続けてきた私は、届かない言葉の寂しさを知っている。
だから、誰にも届かない生きづらさやしんどさや負ってきた傷をを暴言と汚い言葉にラッピングして誰にも届かないsosを叫び続ける人たちをとてもではないけど憎む気にもなれなくて、自分と紙一重な気がして暗澹とした気持ちになった。
何年間も言葉の海の中に世界の片隅から思いを書き綴ってきた私は、初めて自分の言葉が人に届く喜びを知った。
どんなに暴言が飛んで来ようともその何百倍も何千倍も、自分の書いた文章が広い広い人の目に触れて、人の心に少しでも触れられていくのがうれしくてうれしくて仕方がなかった。
誰かに届けたくて何年も書き溜めてきた思いの数々が次々といろんな人の仕事の休憩時間に、1人の夜に、憂鬱な通勤電車の中での時間に、日本中の様々な場所で読まれていくことは不思議な感覚だった。
そして、およそ2年前に書いてネットの海の中で忘れ去られていた弟とブルガリの名刺入れの記事のいいね数は5000を超えて、閲覧数は14万を超えて。
見たこともない反応に戸惑い喜び驚き怖くなったり色々感情が忙しかった。
そんなこんなで、鍵垢に引きこもって、ぼんやりと散歩をしていたら従兄弟からLINEが来た。
ラインに送られてきた一枚の写真は私のTwitterのアカウント。
「これ、蒼子ちゃんやろ?」
ついに、身内にバレてしまった。
「ばれた?」
と聞くと、
「わかるよ。俺、蒼子ちゃんの文章好きやもん。
読んだらすぐ蒼子ちゃんが書いたって分かったもん」
と言われて、いろんな感情が溢れ出た。
「鍵外したら?もったいないよ
嫌な言葉飛んでくるの分かるけど
もっといろんな人に文章読んでもらった方が良さそう。
ブロックしたらいいじゃん
気分屋なんですぐブロックしますって
プロフィールに書いてさ。
気にすな他人の言葉なんて
蒼子ちゃんの何倍も頭悪い奴らが書いた奴らの言葉を。
それより、自分の言葉を他人に届けることに注力したらいいと思う。
いつも通り暴力的な文章を書き続ければ良いと思う!
僕は、それがみたいし見られて欲しい!」
次々送られてくる言葉にとうとう泣いてしまった。
信じられないくらい褒められて、びっくりするくらいに怒られて、泣けちゃうくらい嬉しいことを言われて、青ざめるくらいに酷いことを言われて。
自分に向けられた顔の見えない人々の言葉の洪水に言葉を見失って立ち尽くしていた。
いい言葉も悪い言葉も大量に一気に摂取して、言葉に溺れて自分が何を言いたかったのかを見失ってしまったけど、
顔の見える人のたった一つの言葉が道標を指す光みたいにさあっと、モーセの杖みたいに溺れる言葉の洪水の海を割っていった。
彼はちょっと暴力的だし、ツッコミどころはあるけれど、どこまでも一方的な私の味方として言葉を発してくれた。
いとこは、母の妹の長男である。
お母さんやお父さんに言えないことや、バレたくないこととか、言いにくい相談をいつもこっそり私にしてきて。
課題が間に合わなきゃ泣きついてきて、
いつも助けを求めて駆け込んでくるばっかりの子なのに、初めて従兄弟に助けられてしまった。
たった1週間で、何十万という人に自分の文章が届いた。
7000人の人にフォローされた。
5000人の人に文章を賞賛された。
なんとなくそれに正面から向き合えなくて、茶化して逃げてふわふわしてたけど、やっぱり私はここで勝負を仕掛けたい。
真正面から向き合って、ネットの大海から私を見つけてくれた人たちともっと仲良くなりたい。
その人たちの心に手をかけたい。
もっともっとたくさん書いて、
殺伐とした言葉の海の中に一個多くのでもあったかいものをばら撒いていきたい。
自分の弱いこともダメなところも隠さずに。
まだまだ書きたいことたくさんある。
言葉にできてない思いがある。
乗りかかった船だから最後まで付き合ってくれ。
後悔はさせないと、勇気を出して約束したい。
あらゆる感情、味わいつくしていこうな!
おしまい!!!!!
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