誕生日と命日と原爆が落ちた日
私は広島県に住んでいる。親戚がいるわけでも友達がいるわけでもなく、もちろん生まれ故郷でもない、中国地方の中核都市。繁栄と観光と海と物悲しさが溶けるこの街の風が肌に馴染むのは、ただ底抜けに明るいだけじゃなく、暗いバックボーンを経た深みのある朗らかさゆえに違いない、と気付いたのは住んでから半年ほどが経過した日のこと。つまり、今日のことだった。
八月六日。
はちがつむいか。
365日の周期で区切られた繰り返しの中で、他の日と何ら変わらない24時間に、窮屈すぎるほどたくさんの意味が含まれているのだと思った。そんな気付きを綴りたい。
まだ朝日も昇り切っていないのにフライング気味にうるさく響く蝉の声は、窓を開けるとより一層存在感を増した。吹き込む朝の山の風を浴びながら将棋をするのが私の朝のルーティーン。
スティックのカフェオレを入れて、ぱち、ぱち、と将棋を指していると、清かな風に乗って隣家のお爺さんの声が聞こえてきた。Nさんだ。
隣家のNさんには引っ越してきた日から良くしてもらっている。この間も「畑で採れたから」とまるまる実ったきゅうりやトマト、にんにくをいただいてしまった。まだお返しが出来ていないのが心苦しいな……と思っていると、Nさんの家から幼い子供の声が聞こえてきた。
(お孫さんが帰ってきてるんだな)
夏休みだもんね。いいね。
心なしかいつもより嬉しそうなNさんの声をBGMに将棋に戻ろうとしたとき、私の耳が不釣り合いな単語を拾う。
「——原爆」
駒を持つ手がすっと止まったのは私が日本人だからだろうか。それとももっと別の、咎められたような気持ちになったのが理由だろうか。駒を持ったままNさんの言葉に耳を澄ました。上手くは聞き取れなかったけど、おそらく、何か物語のようなものを朗読していた。お孫さんに読み聞かせているんだということはすぐに分かった。
次いで、お孫さんが快活な声でNさんに問う。子どもの声はよく通る。
「どうして戦争になったの?」
Nさんは何かを答えていた。その声はやはり上手く聞き取れなくて、答えはN家の中だけに守られた。それはとても良いことだと思った。少なくともその問いへの答えは誰かに盗み聞きされるべきじゃない。同時に、私は私の答えを探さなくてはならない。現代に生きる者として、避けては通れない問いだからだ。
気づけば朗読は終わったようで「いただきます!」と高い声が聞こえたかと思うと、もういつものN家に戻っていた。
私はNさんが好きだ。田舎町の新参者である私に、得体の知れない私に優しく接してくれるNさんの心意気には感服さえしていた。定年を終えて奥さんと二人、山間の自宅で野菜を育てたり釣りをしたりして過ごす。
理想的な老後の生活を堪能するNさんを見ていると、ニュースで取りざたされるような「老後資金問題」だとか「ロシア」だとか「大統領暗殺」だとか、そういう血生臭くて耳を覆いたくなる世界のキーワードが遠い世界の言葉に感じられるほど、ほのぼのとして和やかだったからだ。私はNさんに平和を重ねていたのだと思う。
だから、はっとした。どこか咎められた気がしたのは、駒を持つ手が止まったのは、無意識的に平和の象徴として機能していたNさんの口から、最も平和と縁遠いはずの「原爆」というキーワードが飛び出したからだ。耳を塞いで過ごす自分を、耳を塞ぎながらも平和を享受しようという浅ましいタダ乗り根性を、強烈に指摘された気がしたのだ。
そしてNさんは夏休みに遊びに来ている無邪気なお孫さんに、痛烈な戦禍のリアルを教えようとしていた。お孫さんからすれば退屈だったかもしれない。「もうじいじの家行くの面倒だからイヤ!」と嫌われてしまうかもしれない。それでもNさんは伝えようと決めたのだと思った。
この広島の風が肌に合うのは、ただ底抜けに明るいだけじゃなく、暗いバックボーンを経た深みのある朗らかさゆえに違いない。Nさんはまさにそれを体現したような人だった。
なるほど。
だから、私はNさんが好きだったのだ。
思い出す。今日は八月六日だった。
誰かにとっては何でもない一日で、誰かにとっては忘れ難い一日で、誰かにとっては人生が終わった一日で、誰かにとっては人生が始まった一日で、誰かにとっては式典に出席する面倒な一日で、誰かにとっては孫に戦争の歴史を伝える一日で。じゃあ、私にとってはどうだろう。
私には無縁な一日だった。無関心で、怠惰に、贅沢に過ごすいつも通りの一日。365日のうちのひとつ。
そしてそれこそが「平和」なのだと思う。私は私の無自覚さを通して「平和」の正体を発見した。無自覚であること。無自覚であることを許容されること。それこそが個人レベルの平和の正体で、あまりに無自覚だから自分が平和であることに気付くことも難しい。というか気付かなくても平気で生きていける。平和はいつだって怠惰の近くに存在している概念だから。
ところで皆に聞きたいんだけど、戦争は嫌い、とは言うが、私は戦争を知らない。あなたは、本当に戦争が嫌い?
概念で、動画で、ハッシュタグで、キャスターの声で、観光で訪れた資料館で、戦場カメラマンのファインダー越しで。間接的にしか知らない戦争のこと。好きか嫌いか、本当のところは分からない。
戦争に勝てば儲かるらしい。戦争で儲かって街に札束が降り続けるのなら、その景色だけを見て戦争と呼ぶのなら、私はきっと戦争が好きだ。その裏で自分の大切な人が戦地に赴いて誰かの銃弾で死んだと聞けば、私は戦争が嫌いだと思うだろう。私はどちらも味わっていないから、好きも嫌いもない。ただ、本当に、心から恐ろしい。人が本気で人を殺そうとする。それが承認される世界に生きたためしがないから、慣れていないのもあって、怖い。私が戦争に抱く印象のすべては「怖い」でしかない。
きっとあなたもそうだろう。若い方ならなおさら、そうだろう。それ以外の感想を抱けるのは、良くも悪くも戦争のセンスがある方なんだと思う。
知らないんだ、人を殺したこともないわたしたちは、殺す快感と恐怖を知らない。その先にある栄枯と盛衰を知らない。メリットもデメリットもタイパもコスパも分からない。ならいっそ、軽々しく「戦争は嫌い」「戦争は愚かなことだ」と強がるのはやめてみたい。ただ小市民らしく、バカでかい爆弾が落ちてきて街を人を焼き尽くすなんて怖すぎる、と泣きたい。
私は一度、泣いたことがある。ミサイルが恐ろしかったから。
私の出身は新潟県なのだけれど、新潟県には一度、北朝鮮からのミサイルのアラートが鳴ったことがある。その時の私はまだ子どもだった。テレビを観ていたら急に警報が鳴って、「すぐに地下に避難しろ」と迫るキャスターの声が見たことないくらい真剣で、私はすぐに家を飛び出して駅前で働く母の職場へ走った。死ぬなら母のそばで死にたいし、死なずに済むなら母と逃げたい。
頭の中で、実物は見たこともないけれど、殺意の塊みたいな鉛色のミサイルが克明に浮かび上がって、私の背後に迫っていた。朝鮮半島を飛び立って、一度空を突き抜けて宇宙へ飛翔し、とてつもない温度の火炎を吹き出しながら私の頭の上に落ちてくる。追いつかれないように、一瞬でも母の顔を拝んでから死ねるように、夢中で走った。
汗だくで母の職場に転がり込むと、みんなが私を見た。私は大きな声で叫んだ。
「ミサイルが落ちてくるよ!」
一瞬だけ騒然とした。でもみんなはすぐに落ち着きを取り戻して、それぞれ携帯を取り出してニュースをチェックし始める。遅れてやってきた母親の顔を見て、私はもう一度同じ言葉を繰り返した。母親は驚いた表情を浮かべたあと、優しく笑った。
「伝えようとして来てくれたんだ。ありがとうね」
それどころじゃないのに! と焦って説明を繰り返すも、母は妙に落ち着いていて、それがかえって今生の別れみたいに思えてきて、足を止めている私の後頭部に向かってあの大きな殺意の塊が飛び込んでくる恐怖がぬぐえなくて、私は母の顔を見ながら、顔をぐちゃぐちゃにして泣いた。本当に、怖かった。怖かったんだ。
結局ミサイルは落ちなかった。この間の沖縄も。きっとそうそう落ちない。だって自衛隊がいるし、日本には米軍基地もある。北朝鮮からミサイルが発射されればすぐに韓国軍が発表するし、これまでだって一度も落ちたことはないじゃないか。
そんなもの、大人になってから自分を安心させるために吐いた嘘だ。
ぜんぶ、ぜんぶ、本当のところは分からない。私はミサイルを撃つ人のことも、ミサイルが落ちた人のことも、何一つ分からない。だから、この世界がひどく恐ろしい場所なのだと、直視して、怖がることをやめたくない。知った気になるのも、知らない自分を肯定するのも、きっとこの世界の乗組員としてふさわしい態度ではないから。
私はずっと恐れ続けていたい。こんな晴れた日には、やっぱりミサイルが飛んだ新潟の空を思い出す。思い出して、恐怖に立ち向かうために筆を執る。音楽を聴く。考えて、悩んで、周りの人を大切にして、自分を守る。
それでもやっぱり疲れて休んだ時には、怠惰と寝そべるベッドの上で、ちゃんと平和を見つける。今ここにある平和が、名も知らぬ誰かの土台で作られているんだってことに感謝したい。その態度だけが、私を、私たちを、戦争から遠ざけるのだと信じている。
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