言葉で伝えられなくても、それでも伝えようとする姿は、あまりに映画的だ。 - 『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』
うら若き少年少女たちが描かれる映画には、確かに彼らがその年齢でその時代を生きたのだという、ドキュメントとしての記録的価値というものがある。本作に出演している若い役者たちの成長と、作品内における登場人物たちの成長過程とがシンクロするかたちで映画は完成されていくのだから、そこには円熟した役者が魅せる芸というものとはまた別の、映画ならではの「記録・記憶」の力というものがあるのだと強く実感させられる。
しゃべると言葉が詰まってしまい、うまく話せず、周囲ともなじめない主人公の志乃が、同じく周りから孤立し、ギターが趣味だが音痴であることにコンプレックスを抱く少女・加代と出会う。二人はともにフォークデュオを結成し交流を重ねていくなかで、彼女たちが徐々に自身の内面と向き合い、成長していく姿が描かれる本作だが、劇中では一度も吃音症やどもりといった言葉を使うことなく、あえて意図的に排除することで、志乃の心の状態に病名を与え、それは治せる病気であり、治療へと向かうというような安易な物語的解決を図っていない。そして、この言葉では伝えられない思いを、それでも伝えようと苦心する姿というのは、いかにも映画的であって、台詞による説明描写を避けたり、人と人との微妙な距離感や温度差のようなものを、撮影時の細かなディテールへの配慮や、的確なショットの選択から上手く表現している。
この映画が吃音といった題材の枠からはみ出し、より普遍的な映画へとたどり着いた理由は、主人公の志乃だけでなく、加代や、同じクラスのはみ出し者である菊地もまた、伝えたい本当の気持ちをうまく言葉にできず、それでもぶつかっていこうする姿が描かれているからだ。
終盤の学園祭のあと、三人が再び集まる姿を描くのではなく、別々の場所で離れて過ごす姿が映し出されるが、そこには妙な清々しさを感じるものがある。それは、三者が三様にそれぞれのやり方で、自分自身の居場所と向き合えたからだ。そして、そうした姿に手を差し伸べてくれる他者が確かにいることを提示して、この映画は希望とともに幕を閉じる。