原始・古代布ⅰ 「倭文」「木綿」「麁妙」-麻・苧・蕁麻・楮・榖・藤・葛・桑・科・蚕糸-
日本列島に遥かむかしから住んでいた人々は生活地域で採取された、麻・苧・蕁麻・楮・榖・藤・葛・桑・科などの植物性の繊維と蚕糸を衣類に利用してきました。江戸時代に木綿(もめん)が普及するまで、日本人の衣料はほとんど変わることなく、周辺の山野に自生する草や木の皮から糸を紡ぎ、布を織りだしてきました。縄文遺跡でみられる大麻、苧麻、赤麻などの繊維も、その発祥年代は定かではなく、渡来してきた歴史的過程も詳らかではないようです。阿波国には古くから楮・榖(かじ)の樹皮の靭皮を裂いて糸をつくり織られた、「太布(たふ)」と呼ばれる織物が残っています。本居宣長の随筆『玉勝間』のなかで、「いにしへ木綿(ゆう)といひし物は、榖の木の皮にて、そを布に織したりし事、・・・・・・今の世にも、阿波ノ国に、太布といひて、榖の木の皮を糸にして織れる布有り」と書かれている織物です。
木綿ゆう
榖による繊維の利用は古代から続いていたと思われていますが、平安時代以前の文献に「太布」の表記は見当たりません。忌部氏関係文献に「木綿」があり、本居宣長が記している内容もこれらの文献を元に書かれているようです。古代、製織の技術の普及に最もかかわりが深かったとされるのは、忌部と呼ばれる氏族です。阿波の地にはその忌部の伝承が多く、吉野川の支流穴吹川の源、剣山地の北麓木屋平村に今も住む人々が、その末裔といわれています。現在太布織は、木屋平より山並みを越えて南麓の村、木頭村の人々によってわずかに織りつがれています。
文献の中でみられる「木綿」の記されている資料は、年代順に『日本書紀』『万葉集』『古語拾遺』『延喜式』があり、阿波と関係のある箇所を紹介します。何れも忌部の遠祖天日鷲命(アメノヒワシノミコト)が木綿をもって神に奉仕する内容です。
最初の勅撰正史として養老4年(720)に成立した『日本書紀』の巻第一の一節、天照大神の岩戸隠れの神話の場面では、神々が隠れた天照大神に再び現れて貰う方策のため、天香山の真坂木、八咫鏡、八坂瓊の勾玉、木綿に願いを懸けます。大同2年(807)に成立した『古語拾遺』では、「神武天皇の勅命を受けた天富命(アメノトミノミコト)が、天日鷲命の孫を率いて阿波国に渡来して麻、榖(かじ)を植えて麻植郡を創設。その後さらに阿波忌部の一部を率いて黒潮に乗り、豊饒の地を求めて東国に渡来し、天富命の祖神太玉命(フトタマノミコト)を祀り安房神社を創立した」と記されています。阿波忌部は東国を統治するため麻、榖の木の栽培をはじめ、木綿と阿良多倍(あらたえ/麻布)を広めます。延長5年(927)に撰進された『延喜式』は平安初期の宮中の年中儀式や制度の記録です。巻七・神祇七 践祚大嘗祭の文中に阿波国の忌部が、古語拾遺にも記された麁妙服(阿良多倍)や木綿をもって奉仕することが記されています。
倭文しず
もう一つ古くから「倭文(しず・しづ)・倭文布」と呼ばれた『日本書紀』『万葉集』『古語拾遺』『常陸国風土記』『延喜式』に散見する織物があります。倭文部の遠祖だといわれる天羽槌雄神(アメノハツチヲノカミ)が石窟に籠った天照大神を誘い出す際に文布を織ったと『古語拾遺』には記されています。『延喜式』には式内社として常陸国、駿河国など14ヶ所で倭文神社が分布していて、伯耆国では一の宮として祀られています。美作国久米郡、淡路国三原郡、因幡国高草郡など倭文関連の地名や神社、伝承が各地に見られます。倭文部という倭文を織る技術集団が製織技術の普及をするため各地に進出して、弥生時代の文化、文明をもたらした証しなのでしょうか。
倭文は5世紀から6世紀ごろに各地に広まったとみられ、『延喜式』には駿河国、常陸国からそれぞれ31端を調布として収めた記録が残ります。その後多種の織物の名称が増えるなか、倭文の記録は10世紀には見られなくなります。
名称の表記も定ることなく和語は「しとり」「しどり」「しず」「しずり」「しづり」と地域によって違い、漢語も「倭文布(しずぬの・しずり)」「倭文織(しずお・しづおり・しとおり)」「倭文幡」「委文」「静織」「賤機」「志都」など文献には多くの表記が残っていますが、その実体は未だ解明されていません。古代の文布(あやぬの)で緯を青や赤に染めた縞織物だともいわれ、麻、楮、榖などの植物繊維による弥生時代から伝わる布だと考えられています。倭文帯、倭文幣、倭文手纏、倭文鞍と、身につけることにより霊力が得られると神聖なものに用いられ、祭祀用、呪術用としての織物であったと思われます。
『古語拾遺』では長白羽神(ナガシロハノカミ)に麻で青和幣(アオニギテ・爾伎弖)を作らせ、天日鷲神と津咋見神(ツクヒミノカミ)とに榖の木を植えて白和幣(ニキタヘ・爾伎多倍)を作らせます。天羽槌雄神に文布を織らせ、天棚機姫神(アメノタナバタヒメノカミ)に神衣を織らせます。所謂、和衣(ニギタエ)であると記されています。古語拾遺では忌部と倭文部がともに白和幣(木綿)を作る氏族になっています。
『万葉集』の山上憶良の歌に、「倭文手纏(しづてまき) 数にも在らぬ身には在れど 千年にもがと 思ほゆるかも」万葉集巻5-903 と詠われ、「天地の神はなかれや愛しき我が妻・・・・木綿だすき肩に取り掛け倭文幣を手に取り持ちてな放けそと我は祈れどまきて寝し妹が手本は雲にたなびく」蒲生娘子 万葉集巻19-4236 と詠まれるように木綿の襷は肩から掛け、倭文の幣を手にもって祈る様子が伝わります。
「ゆうだすき 千歳(ちとせ)をかけて あしびきの 山藍の色は かはらざりけり」十一月臨時祭を祝して、天慶3年(940)閏7月に屏風歌が詠進され、紀貫之の歌と云われています。神事に奉仕するとき木綿(ゆう)でつくった襷をかけて行う習わしがあり、天皇を慶祝する意味を籠めて神事の永さと、山藍の色が千歳にわたって変わらない事を詠んだ歌です。
部族国家が色濃い万葉時代から律令国家体制に統治が変わるなか「木綿」「倭文」に祈りを懸ける風習は人々に共有していたと考えられます。
註:『日本書紀・上』岩波書店刊 日本古典文学大系『古語拾遺』岩波文庫 西宮一民校注
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https://www.japanblue.info/about-us/書籍-阿波藍のはなし-ー藍を通して見る日本史ー/
2018年10月に『阿波藍のはなし』–藍を通して見る日本史−を発行しました。阿波において600年という永い間、藍を独占することができた理由が知りたいと思い、藍の周辺の歴史や染織技術・文化を調べはじめた資料のまとめ集です。